2015年12月19日土曜日

2015.12.19 宇都宮市立視聴覚ライブラリー 原節子さん追悼映画会「晩春」

宇都宮市立東図書館 2階集会室

● 1949年の小津安二郎作品。2010年12月に鹿沼市民文化センターの名作映画会で見ている。今回が2回目。
 と思っていたんだけど,2010年12月には見ていないのだった。いつどこで見たんだ?

● 父親(笠智衆)と娘(原節子)の交流。母親は早くに亡くなっているのだろう,ずっと娘が父親の世話をしてきた。
 娘は父親が自分の母親以外の女性と再婚することを不潔だと感じているらしい。娘が中学生や高校生ならばそれもわかるんだけど,劇中の娘は27歳だ。27歳でそのように考えるのは,少しくあり得ないように思われる。

● 娘が「おもらいになるの? おもらいになるのね? 奥さん」と父親に迫るところがある。これなんか恋人に対するがごとくだ。
 父と娘の間に,夫婦に似た情感が通うことがあるのだろうと思うほかはない。ぼくには娘がいないので,どうにもここは雲を掴むような話になるのだが。

● ともかく。自分は再婚するからおまえも嫁に行け,自分の面倒をみている必要はない,と娘に嘘をつき,娘を縁づける。
 その間の笠智衆の演技はじつにどうも淡々としたもので,力みやわざとらしさは1ミリも見られない。ずっとポーカーフェイスだ。役者の存在感は薄ければ薄いほどよいと考えているのか。

● 娘が嫁いだ日。式が終わって,自宅に戻り,来客もすべて去って,一人になったとき。
 リンゴの皮を剥いていた父親が突然うなだれて,リンゴを取り落とす。ここでこの映画は終わるんだけれども,ずっとポーカーフェイスでいたのは,このシーンのためだったかと思わせる。
 この演技だけが唯一,父親が娘と離れる辛さ,寂しさを抑えに抑えた動作で表現したところだった。

● 昨日は「東京物語」を上映したようだ。南図書館でも26日に「晩春」と「東京物語」を上映する。何度見てもいい映画だ。けれども,貪るのはよろしくないでしょうね。
 アマゾンを見ると,DVDが500円で買える。そういう時代なんだな。フィルムを一人占めして,自分専用にするなんて考えられない贅沢だった。それがデジタル化のおかげで(それと,著作権が切れたおかげで)現実のものになったわけだけれども,そうなってみると,そんなものは贅沢でも何でもなく,ただの寂しい行為に過ぎないことがわかった。

2015.12.19 宇都宮市立視聴覚ライブラリー 20世紀名画座 「赤い靴」

宇都宮市立東図書館 2階集会室

● 東図書館の「20世紀名画座」は,土曜日に催行される。10時からと14時からの2回上映。もちろん,毎週やっているわけではないけれども,往年のこうした映画を拾っていけるのはありがたい。
 昔は名画座っていうのが興行的にも成り立っていた。ロードショーの半額くらいの料金で3本立てとかね。つらつら思んみるに,娯楽の選択肢が今と比べれば圧倒的に少なかったんでしょうね。
 選択肢が少ないと教養主義が幅を利かせることになって,名画座もその流れに乗っていたものかもしれない。もちろん,教養云々以前に面白かったから,見に行っていたわけですけどね。

● 東図書館ではもうひとつ,日本映画の上映も継続してやっていて,こちらは金曜日。
 これに参加できるのは,リタイアしたお年寄りだけかと思うんだけど,興行的には成り立たなくなったことを公共セクターがやってくれて,ありがたいですよ,と。

● 「赤い靴」は1948年公開のイギリス映画。「赤い靴」というと,ぼくなんかは,横浜の波止場から異人さんに連れられて行っちゃった女の子が思い浮かぶんだけど,もちろんそれは無関係。アンデルセン童話の「赤い靴」がモティーフになっている。
 キャストはプリマに抜擢されるヴィッキー(ヴィクトリア・ペイジ)にモイラ・シアラー,ヴィッキーを抜擢した興行種ボリス・レルモントフにアントン・ウォルブルック,この興行で音楽を担当し,ヴィッキーと恋仲になるジュリアン・クラスターにマリウス・ゴーリング。

● この映画の第一の見せ場は,タイトルのとおりだ。つまり,劇中バレエの「赤い靴」だ。セリフなしのダンスシーンがずっと続く。
 死ぬまで踊り続けなければならないプリマ。それを演じるヴィッキー(を演じるモイラ・シアラー)の可憐さ。

● もうひとつ。レルモントフは「赤い靴」の成功に気をよくして,ヴィッキーをジゼル,白鳥の湖など,メジャーな作品の主役に使って,世界を興行して回ろうとする。
 その映像の中に,コッペリアを演じるヴィッキーが10秒程度だろうか,出てくるんだけど,こんなチャーミングなコッペリアは見たことがない。

● 「赤い靴」をはいたダンサーは死ぬまで踊り続けなければならない。それを主人公ヴィッキーの人生にもかぶせていく趣向。
 レルモントフと対立したジュリアンは団を出ていく。ヴィッキーもジュリアンにしたがう。しかし,踊る機会がなくなる。踊りは自分の人生そのものだとヴィッキーは思っている。
 が,ジュリアンを裏切ることはできない。ギリギリのところでヴィッキーは死を選ぶ。この場面で悪役はいない。レルモントフにもジュリアンにも,ヴィッキーを死に至らしめた責任を問うことは難しい。

● ぼく一個は,ジュリアンを振りきって,バレエを選んで欲しかったかなと思うんだけどね。
 誰かのために自分を殺せる度合いは,男よりも女のほうが大きい。これが女の可愛らしさの源であるし,女に凄みをもたらす原動力でもある。
 結局,ヴィッキーはジュリアンに「赤い靴を脱がせて」と告げて死んでいくのだから,ジュリアンのために“バレエ=自分の人生”を殺すことを選んだのだ。

● あと,この映画で面白かったのは,当時のヨーロッパの上流クラスの暮らしぶりだ。レルモントフには常時,執事というのか召使いというのか,世話係がついていて,煙草を吸うんでも火は自分ではつけないし,灰皿だって向こうからやってくるのだ。
 こういう暮らしの伝統を持つヨーロッパ人と,それができないぼくらとでは,たとえばホテルでの過ごし方や,初対面の人との接し方などに,相互に理解不能なほどの違いが出るのかもしれないね。ヨーロッパ人が羨ましいとはまったく思わないけどね。

● この映画に出てくるロンドンやパリは,カオスに満ちている。東京は焼け野原になっていたわけだけど。
 馬車と内燃機関で動くバスが同じ道路で競合する。そこに,蒸気機関の列車が加わる。全部合わせても,交通需要を満たすことは難しかったようだ。ゆえに,煮えたぎっているような雑踏が生じる。
 良くいえば,活気がある。普通にいえば,秩序がない。悪くいえば,肺を病みそうである。