2017年12月11日月曜日

2017.12.09 宇都宮市民プラザ ウィークエンドシネマ 「自転車泥棒」

宇都宮市民プラザ 多目的ホール

● 1948年のイタリア映画。監督はヴィットリオ・デ・シーカ。
 稼ぎの糧の自転車を盗まれた主人公アントニオ(ランベルト・マジョラーニ)が,息子ブルーノ(エンツォ・スタヨーラ)と二人で犯人を探す。
 “貧すれば鈍す”の物語。無関係の老人に多大な迷惑をかけ,無実の人を犯人と思い込み,あげくは自分が自転車を盗んでしまう側に回る。

● そんなことをしてる暇があるなら,別な仕事を探せばいい。粘着質なんだろうな,盗まれた自転車を探すことだけに視野が狭窄されてしまう。
 子役を演じたエンツォ・スタヨーラでもってるようなところがある。

● まぁ,でも,この映画の肝はそういうところにあるのではない。たぶん,何事かを訴えたい社会派映画なのだろう。その何事が何なのかは,ぼくにはわからないのだが。
 どうにもならないこの世の無情なのか,名もない市井人に対する世間の冷たさなのか。

● しかし,貧乏だからといって幸せになれないわけではない,ということも教えてくれる。ただし,ひとつだけ条件がある。まわりの人たちもひとしなみに貧乏であることだ。ここが崩れてしまうと,貧乏は辛いだけのものになる。
 だから,貧乏人は集まってスラムを作るのかもしれない。スラムに住む方が幸せなのかもしれない。

● ぼくが子どもの頃の田舎(農村)はひとしなみに誰もが貧乏だった。もちろん,多少の差はあったんだけどね。
 あの当時の暮らしを今の時代に再現すれば,間違いなく生活保護に該当するだろう。では,当時,ぼくらは不幸だったか。あの頃に戻りたいとはサラサラ思わないけれども,小さい幸せはいくつもあったような気がする。
 近所の女の子に心ときめかす幸せ。母親に背負われて移動した診療所までの1キロ半の道のり(背負って歩く母親はそれどころじゃなかったろうけど)。正月の餅の旨さ(ぼくは喉に詰まらせてしまう癖があって,餅米の餅は食べさせてもらえなかった。小麦粉で作ったおかきのようなものをあてがわれていたんだけど,それでも醤油を付けて焼くだけで充分に旨かった)。霜柱を長靴で踏んで歩く快感。たまに買ってもらう付録付きの少年雑誌を開くときの満ち足りた気持ち。初めて手にした安物の万年筆で大人に近づいたと思えたとき。
 そういう小さな幸せはたしかにあった。そして,幸せとは常に必ず,小さなものなのだ。