宇都宮市立南図書館 サザンクロスホール
● 1949年の小津安二郎作品。2010年12月に鹿沼市民文化センターの名作映画会に続いて,今回が2回目。
父娘の物語。娘(原節子)が自分の面倒をみるために結婚に踏みきらないのを察した父親(笠智衆)が,自分も再婚すると偽る。
● 当時と今とでは世相が違いすぎる。特に女性にとっての結婚は,今よりずっと重いものだったろう。女性にはなかなか職もなかったし,あったとしてもいつまでも勤めるのは肩身が狭かった。
ハイミスっていう言葉があったね。要するに,社会から受けるプレッシャーが今とは比較にならない。社会が放っておいてくれなかった感じね。
寿退社が当然視されてたし,結婚年齢も23歳あたりが平均だったのではないか。だから,女子社員は文字どおり職場の花だった。若い子しかいないんだから。
● 今は世話焼きオバサンがいなくなって,自分で婚活をしなければならなくなった。婚活が産業になってしまって,それを飯の種にする人たちも出てきたわけだけど,これはこれでイビツかもね。
出会いの場がなくなったなんて言われるけど,本当にそうなのかね。ぼくは疑っているんだけど。
● ともあれ,そうではあっても,当時と今とどちらがいいかといえば,圧倒的に今の方がいいと思っている。
女性が経済的に男に頼る必要がなくなった。結婚しなくても生きていける。結婚はしなければならないものではなく,選択の範疇に属するようになった。あとは本人の意識の問題。その方がいいに決まっている。
● 劇中の原節子も立派なハイミス。笠智衆演じる父親は,世間体を気にしているふうではないんだけど,結婚が女の幸せだっていうテーゼを疑っていない。この時代であれば当然だ。
しかも,自分が娘の幸せを妨げる原因になっている。であれば,ぼくが彼の立場であっても,この程度の芝居は打つかもしれない。
● ただ,この娘は父親に恋人的愛情まで抱いているようでもあり,ひょっとすると,結婚させるよりこのままにしておいた方が,娘の幸せだったのかもしれないなと思わせる。狙った演出なんでしょうね。
原節子の演技によるのかもしれない。「おもらいになるの? 奥さん」って笠智衆に詰るように訊ねるところがあるんだけど,これなんか恋人に対するがごとくだったなぁ。
(お断り)
じつは,この映画,直前に用事ができちゃって,観に行けませんでした。観る前にこの文章を書いておいたのですが,そのまま載せちゃうことにしました。
2019.01.22 にAmazonプライム会員になりました。その1年後にコロナが世界を覆ったので,最近は自宅のノートPCの画面がスクリーンになっています。というわけで,タイトルに偽りありが常態化しました。申しわけありません。
2013年6月12日水曜日
2013年1月19日土曜日
2013.01.19 第4回鹿沼市民文化センター名作映画祭
鹿沼市民文化センター大ホール
● 一昨年に続いて,この映画祭に行くのは2回目。前回は小津作品を4本。今回は今井正監督の作品を同じく4本。
チケット(前売り)は500円。
● 10時に上映開始。終わったのは夜の8時過ぎ。間にたっぷりめの休憩を挟むのと,今どきの映画のように大画面・大音量ではないので,さほど疲れは残らない。
とはいうものの,さすがにね,1日に見る量とすれば,このあたりが限界ですね。
上映本数は1本で,1回ごとにお客を入れ替えるというのは,シネコンができてからの話で,それ以前は3本立てで入れ替えなしなんてのが普通にあったから,若い頃はもっと長い時間映画館にいたこともあったのかもしれないんですけどね(オールナイトっていう言葉もありましたね)。
● その若い頃。いわゆる名画座で3本立てをけっこう見たものだけど,すべて外国の映画だった。邦画を見た記憶はないですね。邦画って新作以外はどこの映画館でもやってなかったですよねぇ(都会ではあったのかもしれないけど)。需要がなかったからでしょうね。
というわけで,今回見た映画もすべて初めてのもの。
● 1本目は「また遇う日まで」(東宝)。1950年の作品。主演は岡田英二と久我美子。戦時中の若い男女が恋に落ち,共に命を散らして,「また遇う」のは天国になるというストーリー。
若き久我美子の気品ある美しさは何にたとえよう。っていうかですね,率直に申しあげると,今の日本なら,けっこういると思うんですよ,この程度にきれいな女の子って。
だけども,何の根拠もなく言うんですけどね,1950年の当時はそうでもなかったはず。市中の女性とは隔絶した存在だったのではないかなぁ,とね。
● ガラス(窓)ごしに二人がキスするシーンがあって,これが当時は相当な共感を呼んだらしい。のだが,今の目線からすれば,何やってんの,あんたたち,って感じかなぁ。
いや,充分に感情移入はできますね。この状況のこのシーンには,時代を超えた説得力がある。なぜなら,この映画に描かれている世界に抵抗なく入れますからね。入ってしまえば,そこはすなわち現在になるわけで。
● 岡田英二が演じる劇中人物(大学生)は最後までお子様でね。今でも時々,戦前の旧制高校を礼賛する声を聞くことがあるんだけども,まぁロクなもんじゃなかったに違いないと思いましたねぇ。こんなやつらが「栄華の巷低く見て」(旧制一高の寮歌)と気取っていたのかと思うと,腹が立つやら情けないやら。要するに,「巷」から隔絶されると,人は必ず馬鹿になる,と。
ともあれ,この映画は久我美子の美しさがすべて,というのがぼくの感想。
● 次は「青い山脈」(東宝)。1949年。主演は原節子だけれども,準主演の杉葉子(高校生役)の方が光っていた。芸者役の木暮実千代も存在感があった。
この当時は,原節子が美人標準だったかに思われるんだけども,今のモノサシからすると,そもそも美人の範疇に入るのかどうか。若い頃からオバサン顔だったんだなぁ。
あるいは,この頃って,20歳を過ぎると相当に大人びていたのかもしれないんですけどね。
● 原作は石坂洋次郎。ぼくは高校生のときにこの原作を読んだことがあるんだけど,今の若者は読まないんでしょうね。
それでいいと思う。当時のぼくでさえ,わざわざ時間を割いて読むほどのものかと,正直,思った記憶がある。現在の若者なら,ほかに読むべきものがあるはずだ。
● 3つめは「純愛物語」(東宝)。1957年の作品。主役は江原真二郎と中原ひとみ。
ふたりはいわゆるアウトロー。「周りの状況に押しつぶされそうになりながら,必死の抵抗を続ける恋人たちの姿は,この監督の作品に一貫する重要なモチーフである」との解説がある。
ぼくが感じたのは,いったんアウトローの世界に組み込まれてしまうと,そこから抜け出ることは非常に難しいだろうなってこと。環境が彼をムンズと掴まえて放さない。その環境圧っていうか,環境の拘束力って,相当なものじゃないのか,と。
● 一方で,アウトローの世界で生きていけるほどの人ならば,常界(シャバ)で生きるのなんて楽勝のはずだとも思うんですよ。ところが,常界に定着できない。
その理由はよくわからない。しばしば言われる常界側の無理解(正確には異能者を排除する傾向)を別にすれば,彼が常界に敵意を持っているか,常界になじむことを諦めているか,あるいはその両方か。
なぜ敵意を持つのかといえば,貧困(の記憶)と彼のどこかにある愚鈍さだ。ここでいう愚鈍とは,よくいえば,社会のルールに乗ることを潔しとしないこだわり。あるいは,損得計算をしない向こうみず。
彼らふたりは時代の被害者なんだけれども,21世紀の日本にも彼らのような人はいるだろう。他に害を及ぼさないのであれば,放っておいてやるのがいい。それが一番だ,たぶん。
● この映画だけは,白黒ではなくてカラー。オープニングクレジットにも「総天然色」という文字が誇らしげに?表示される。
この年から映画がカラーになったんですかねぇ。おそらく当時の映画ファンからは否定的な意見が多く出されたのではないかと推測するんですけどね。白黒の方が味わいに奥行きがある,とかね。新しいものに対しては,たいてい否定的な意見が主流になるものでしょうからね。
● 最後は「真昼の暗黒」(現代ぷろだくしょん)。1956年の作品で,冤罪が生まれる過程を描いたもの。伊福部昭さんが音楽を担当。
テーマがテーマだけに,最も腹にこたえた。言葉で言ってしまえば,捜査する側が予断に基づいて青写真を描いてしまって,強引にその青写真のとおりにコトを作ってしまうのが問題なのだ,となる。
しかし,これって,捜査する側にいる人間が誰であっても起きそうだ。たまたま問題が発生したときの捜査者個人を懲らしめればそれですむという話でもない。
一方で,冤罪とされた事件の中にも,じつはやっぱりやっていたってのがあるんじゃないかとも思うわけで,実体的真実を事後捜査で確実に明らかにできるはずもない。そのうえで,ではどうするか。疑わしきは罰せず,を徹底するのか。
● この映画の中で行われている捜査は明らかに拷問で,証拠は拷問による自白に基づく供述調書だけ。当時は,警察の取り調べはこんなものだろうっていう共通了解があったんでしょうね。さすがに,今はこれと同じことは行われていないと思うけど,自白偏重ってのはまだありそうだな。
それがいいとか悪いとかではなくて,なぜ自白が偏重されるのかをきちんと考えた方がいいのかもしれない。状況証拠で詰めていくって,けっこう以上に怖いものなのかもしれないと思ったりもする。それよりは自白に頼った方が,まだしも間違いが少ないのかもしれない。
● 往年の名優っているんだと思う。でもね,おしなべていうと,今の俳優さんの方が演技は上手いと思いましたねぇ。リアリティーがあって演技を感じさせないように思いますね,今の俳優さんの方が。
往年の名優ってのも,過去の美化かもしれないなぁ,と。
● とはいえ,4本とも見てよかったと思いますよ。近い過去は知っておいた方がいい。
もちろん,映画はフィクションなんだけれども,1950年頃にどんなフィクションが生みだされていたのかってのを知っておくことは,けっこう今につながるかも。
それにですね,映画ってやっぱり娯楽ですよ。楽しめるんですよ。心を飛ばせますよ。その点に関して,古い映画はダメだなんてことはまったくないですな。
● 一昨年に続いて,この映画祭に行くのは2回目。前回は小津作品を4本。今回は今井正監督の作品を同じく4本。
チケット(前売り)は500円。
● 10時に上映開始。終わったのは夜の8時過ぎ。間にたっぷりめの休憩を挟むのと,今どきの映画のように大画面・大音量ではないので,さほど疲れは残らない。
とはいうものの,さすがにね,1日に見る量とすれば,このあたりが限界ですね。
上映本数は1本で,1回ごとにお客を入れ替えるというのは,シネコンができてからの話で,それ以前は3本立てで入れ替えなしなんてのが普通にあったから,若い頃はもっと長い時間映画館にいたこともあったのかもしれないんですけどね(オールナイトっていう言葉もありましたね)。
● その若い頃。いわゆる名画座で3本立てをけっこう見たものだけど,すべて外国の映画だった。邦画を見た記憶はないですね。邦画って新作以外はどこの映画館でもやってなかったですよねぇ(都会ではあったのかもしれないけど)。需要がなかったからでしょうね。
というわけで,今回見た映画もすべて初めてのもの。
● 1本目は「また遇う日まで」(東宝)。1950年の作品。主演は岡田英二と久我美子。戦時中の若い男女が恋に落ち,共に命を散らして,「また遇う」のは天国になるというストーリー。
若き久我美子の気品ある美しさは何にたとえよう。っていうかですね,率直に申しあげると,今の日本なら,けっこういると思うんですよ,この程度にきれいな女の子って。
だけども,何の根拠もなく言うんですけどね,1950年の当時はそうでもなかったはず。市中の女性とは隔絶した存在だったのではないかなぁ,とね。
● ガラス(窓)ごしに二人がキスするシーンがあって,これが当時は相当な共感を呼んだらしい。のだが,今の目線からすれば,何やってんの,あんたたち,って感じかなぁ。
いや,充分に感情移入はできますね。この状況のこのシーンには,時代を超えた説得力がある。なぜなら,この映画に描かれている世界に抵抗なく入れますからね。入ってしまえば,そこはすなわち現在になるわけで。
● 岡田英二が演じる劇中人物(大学生)は最後までお子様でね。今でも時々,戦前の旧制高校を礼賛する声を聞くことがあるんだけども,まぁロクなもんじゃなかったに違いないと思いましたねぇ。こんなやつらが「栄華の巷低く見て」(旧制一高の寮歌)と気取っていたのかと思うと,腹が立つやら情けないやら。要するに,「巷」から隔絶されると,人は必ず馬鹿になる,と。
ともあれ,この映画は久我美子の美しさがすべて,というのがぼくの感想。
● 次は「青い山脈」(東宝)。1949年。主演は原節子だけれども,準主演の杉葉子(高校生役)の方が光っていた。芸者役の木暮実千代も存在感があった。
この当時は,原節子が美人標準だったかに思われるんだけども,今のモノサシからすると,そもそも美人の範疇に入るのかどうか。若い頃からオバサン顔だったんだなぁ。
あるいは,この頃って,20歳を過ぎると相当に大人びていたのかもしれないんですけどね。
● 原作は石坂洋次郎。ぼくは高校生のときにこの原作を読んだことがあるんだけど,今の若者は読まないんでしょうね。
それでいいと思う。当時のぼくでさえ,わざわざ時間を割いて読むほどのものかと,正直,思った記憶がある。現在の若者なら,ほかに読むべきものがあるはずだ。
● 3つめは「純愛物語」(東宝)。1957年の作品。主役は江原真二郎と中原ひとみ。
ふたりはいわゆるアウトロー。「周りの状況に押しつぶされそうになりながら,必死の抵抗を続ける恋人たちの姿は,この監督の作品に一貫する重要なモチーフである」との解説がある。
ぼくが感じたのは,いったんアウトローの世界に組み込まれてしまうと,そこから抜け出ることは非常に難しいだろうなってこと。環境が彼をムンズと掴まえて放さない。その環境圧っていうか,環境の拘束力って,相当なものじゃないのか,と。
● 一方で,アウトローの世界で生きていけるほどの人ならば,常界(シャバ)で生きるのなんて楽勝のはずだとも思うんですよ。ところが,常界に定着できない。
その理由はよくわからない。しばしば言われる常界側の無理解(正確には異能者を排除する傾向)を別にすれば,彼が常界に敵意を持っているか,常界になじむことを諦めているか,あるいはその両方か。
なぜ敵意を持つのかといえば,貧困(の記憶)と彼のどこかにある愚鈍さだ。ここでいう愚鈍とは,よくいえば,社会のルールに乗ることを潔しとしないこだわり。あるいは,損得計算をしない向こうみず。
彼らふたりは時代の被害者なんだけれども,21世紀の日本にも彼らのような人はいるだろう。他に害を及ぼさないのであれば,放っておいてやるのがいい。それが一番だ,たぶん。
● この映画だけは,白黒ではなくてカラー。オープニングクレジットにも「総天然色」という文字が誇らしげに?表示される。
この年から映画がカラーになったんですかねぇ。おそらく当時の映画ファンからは否定的な意見が多く出されたのではないかと推測するんですけどね。白黒の方が味わいに奥行きがある,とかね。新しいものに対しては,たいてい否定的な意見が主流になるものでしょうからね。
● 最後は「真昼の暗黒」(現代ぷろだくしょん)。1956年の作品で,冤罪が生まれる過程を描いたもの。伊福部昭さんが音楽を担当。
テーマがテーマだけに,最も腹にこたえた。言葉で言ってしまえば,捜査する側が予断に基づいて青写真を描いてしまって,強引にその青写真のとおりにコトを作ってしまうのが問題なのだ,となる。
しかし,これって,捜査する側にいる人間が誰であっても起きそうだ。たまたま問題が発生したときの捜査者個人を懲らしめればそれですむという話でもない。
一方で,冤罪とされた事件の中にも,じつはやっぱりやっていたってのがあるんじゃないかとも思うわけで,実体的真実を事後捜査で確実に明らかにできるはずもない。そのうえで,ではどうするか。疑わしきは罰せず,を徹底するのか。
● この映画の中で行われている捜査は明らかに拷問で,証拠は拷問による自白に基づく供述調書だけ。当時は,警察の取り調べはこんなものだろうっていう共通了解があったんでしょうね。さすがに,今はこれと同じことは行われていないと思うけど,自白偏重ってのはまだありそうだな。
それがいいとか悪いとかではなくて,なぜ自白が偏重されるのかをきちんと考えた方がいいのかもしれない。状況証拠で詰めていくって,けっこう以上に怖いものなのかもしれないと思ったりもする。それよりは自白に頼った方が,まだしも間違いが少ないのかもしれない。
● 往年の名優っているんだと思う。でもね,おしなべていうと,今の俳優さんの方が演技は上手いと思いましたねぇ。リアリティーがあって演技を感じさせないように思いますね,今の俳優さんの方が。
往年の名優ってのも,過去の美化かもしれないなぁ,と。
● とはいえ,4本とも見てよかったと思いますよ。近い過去は知っておいた方がいい。
もちろん,映画はフィクションなんだけれども,1950年頃にどんなフィクションが生みだされていたのかってのを知っておくことは,けっこう今につながるかも。
それにですね,映画ってやっぱり娯楽ですよ。楽しめるんですよ。心を飛ばせますよ。その点に関して,古い映画はダメだなんてことはまったくないですな。
2013年1月13日日曜日
2013.01.13 宇都宮市立南図書館名作映画会 「紳士は金髪がお好き」
宇都宮市立南図書館サザンクロスホール
● 「紳士は金髪がお好き」は1953年にアメリカで公開されたコメディ・ミュージカル映画。主演はマリリン・モンローとジェーン・ラッセル。
あまりに有名な映画だけれども,ぼくは今回,初めて観ることができた。
上映は午前10時。入場無料。
● マリリン・モンローのその後については,たいていの人が知っていると思う。一方のジェーン・ラッセルは一昨年,89歳で亡くなった。
長く生きりゃいいというものでもないと思うけれども,実人生ではこの二人,明暗を分けた感あり。
● こういう名画・名作と称されるものは,たいてい公立図書館にもDVDがあって,無料で借りることができるだろう。自宅でDVDプレーヤーなりパソコンで観ることができるはず。
が,自宅でひとりで映画を観る気にはなかなかなれない。
● お客さんは高齢者が多い。老人ホームの施設内行事かと見紛うほど。そこにポツンポツンと壮年者が混じっている感じ。
大昔の映画だから,若い人はよほどの映画通でもなければ観ないものでしょうね。かつて観たことがあるっていう人たちが,懐メロをカラオケで歌うがごとき感覚で,観にきたということでしょうか。
● でもね,面白かったです。ミュージカル映画ということもあってか,今,観ても,古いという感じは受けなかった。活き活きしてて,テンポが良くて。
もちろん,画面に出てくる当時のパリの風俗は懐メロそのものなんですけどね。
● 「紳士は金髪がお好き」というタイトルも秀逸ですよねぇ。お客さんにアピールするという意味で(原題は「Gentlemen Prefer Blondes」だから,邦題はほぼ直訳)。
当時,ヒットしたのは,タイトルの勝利でもあるんでしょね。主役ふたりのナイスバディとキュートさにも,当時の日本人男性は大いに憧れたんだろうけど。
● 「紳士は金髪がお好き」は1953年にアメリカで公開されたコメディ・ミュージカル映画。主演はマリリン・モンローとジェーン・ラッセル。
あまりに有名な映画だけれども,ぼくは今回,初めて観ることができた。
上映は午前10時。入場無料。
● マリリン・モンローのその後については,たいていの人が知っていると思う。一方のジェーン・ラッセルは一昨年,89歳で亡くなった。
長く生きりゃいいというものでもないと思うけれども,実人生ではこの二人,明暗を分けた感あり。
● こういう名画・名作と称されるものは,たいてい公立図書館にもDVDがあって,無料で借りることができるだろう。自宅でDVDプレーヤーなりパソコンで観ることができるはず。
が,自宅でひとりで映画を観る気にはなかなかなれない。
● お客さんは高齢者が多い。老人ホームの施設内行事かと見紛うほど。そこにポツンポツンと壮年者が混じっている感じ。
大昔の映画だから,若い人はよほどの映画通でもなければ観ないものでしょうね。かつて観たことがあるっていう人たちが,懐メロをカラオケで歌うがごとき感覚で,観にきたということでしょうか。
● でもね,面白かったです。ミュージカル映画ということもあってか,今,観ても,古いという感じは受けなかった。活き活きしてて,テンポが良くて。
もちろん,画面に出てくる当時のパリの風俗は懐メロそのものなんですけどね。
● 「紳士は金髪がお好き」というタイトルも秀逸ですよねぇ。お客さんにアピールするという意味で(原題は「Gentlemen Prefer Blondes」だから,邦題はほぼ直訳)。
当時,ヒットしたのは,タイトルの勝利でもあるんでしょね。主役ふたりのナイスバディとキュートさにも,当時の日本人男性は大いに憧れたんだろうけど。
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