宇都宮市立東図書館 2階集会室
● 1946年のアメリカ映画。原題は「The Postman Always Rings Twice」だから,邦題を変えているわけではない。映画を見終えたあと,このタイトルは秀逸だと思った。
ジェームズ・M・ケインの原作のタイトルがそうなっているんだから,これは原作者のセンスということになるのだが。
● 雇い主の奥方(ラナ・ターナー)と雇われ人(ジョン・ガーフィールド)が恋仲になり,自分たちの結婚の障害になっている雇い主(セシル・ケラウェイ)を殺してしまおうとするわけだから,とんでもない話なのだ。
雇い主は善人の塊のような人で(吝嗇ではあるのだが)何の咎もない。
● が,奥方も雇われ人も悪事を実行したことによる傷をあまり受けていないようなのだ。大義のためだったとでも思っているような。
それが観客にも伝染する。この二人に感情移入してしまう。そういう作られ方になっている。二人の悪事が上手く行ってくれと思いながら見てしまうのだ。
● ストーリーにも不自然なところがある。二人して駆け落ちする。そのままどうにかなっていれば,何も問題はなかったのだ。が,奥方の方が帰ると言いだしてしまう。理由は単純で,こんな先の見えない生き方よりも,今までの安定した生活の方がいいというわけだ。
自分との未来よりも過去を選んだのだから,ここで二人の仲は終わりを迎えて然るべきではないか。それがそうならないのは,男の側が惚れた弱みを見せるからだ。そんなものを見せる男は,女にすればそれだけでバイバイする理由になるではないか。
● この映画の見所は,二人して収監され,裁判を受けることになるところ。男が,女に責任をかぶせた調書にサインするよう求められ,それに応じてしまう。それを知った女が怒りを爆発させるところだ。ここでのラナ・ターナーはお見事としか言いようがない。
しかし,それでも二人の仲が継続していくのは,何とも不可解。二人は法律上も夫婦となる。大小のトラブルを片付けていく中で,絆は深まっていくようだ。
● しかし,男は子供で女は大人だったという結論で終わる。バランスの取れた結論で,見ているぼくらも納得する。同時に,演じているラナ・ターナーの神秘性(?)が増す仕掛けにもなっている。
それはさておき。洋画というのは,主演女優の圧倒的な美貌を堪能するものだとも思っている。ラナ・ターナーのあまりの美しさに声も出なかった。