2018年11月10日土曜日

2018.11.10 宇都宮市民プラザ ウィークエンドシネマ 「哀愁」

宇都宮市民プラザ 多目的ホール

● 1940年公開のアメリカ映画。監督はマーヴィン・ルロイ。主役のマイラにヴィヴィアン・リー。相手役はロバート・テイラー。

● 学生時代に見ているはずだが,完全に記憶から脱落していた。最後,マイラがトラックの隊列に飛び込んで命を断つシーンだけはかすかに残っていたかも。
 清純な恋する乙女と,その世界に染まりきった娼婦の両方を演じるヴィヴィアン・リーの力量に感じ入った。ただ,恋する乙女と落ちた女というのは,演じやすい役柄ではないかという気はする。

● 前に「風と共に去りぬ」を見ているので,気丈で足から地面に根が出ているようなスカーレットを演じた,ヴィヴィアン・リーを知っている。
 スカーレットとマイラを対比しつつ,ヴィヴィアン・リーを見ていると,ロバート・テイラーのつまらなさが際立つような気もする。ロバート・テイラーではなく,テイラーが演じる劇中人物のつまらなさかもしれないのだが。

2018年9月22日土曜日

2018.09.22 宇都宮市立視聴覚ライブラリー 日本映画劇場 「十六文からす堂 千人悲願」

宇都宮市立東図書館 2階集会室

● 東図書館で映画をもう1本。1951年の「十六文からす堂 千人悲願」。敗戦からまだ6年しか経ってない。この時代の映画はセレブの娯楽だったはずだ。
 そうであっても,娯楽の復興は早かったことがわかる。どんな状況でも,ぼくらは娯楽なしでは生きられない。

● 主役の「からす堂」に黒川弥太郎,宿敵「三つ目御前」に大友柳太朗。他に,横山エンタツも出演。
 が,花を添えるのは女優陣。お紺(市川春代)とお柳(春日あけみ)。特に小料理「たつみ」の女将であるお紺の色気たるや,ゾクゾクするほど。
 やはり娯楽映画にはお色気は必須というかね。

● 正直,安くあげた映画だなと思う。そりゃそうなんだ,1951年の日本で作られたものなんだから。今の目線でモノを言っちゃいけない。
 当時の大人たちは,これで充分以上に楽しめたに違いないのだ。ぼくも昔の記憶をたぐっていくと,映画じゃないけど,少年ジェットやナショナルキッドや怪傑ハリマオや月光仮面でワクワクドキドキしていたのだ。今見たら,ほんとにチャチっぽい映像に違いない。

2018.09.22 宇都宮市立視聴覚ライブラリー 20世紀名画座 「頭上の敵機」

宇都宮市立東図書館 2階集会室

● 宇都宮市民でもないのに宇都宮市立東図書館にお邪魔して,“20世紀名画座”を。今回は「頭上の敵機」。原題はTwelve O'Clock High。1949年のアメリカ映画。「ナチス・ドイツ占領下のフランスに白昼爆撃を敢行したアメリカ陸軍第8空軍の兵士を描いた」もの。
 監督はヘンリー・キング。主演はグレゴリー・ペック。

● 部分最適と全体最適という,組織の永遠の課題を扱った映画だと見ることもできる。が,そんなことよりも,グレゴリー・ペックの格好良さを楽しめばいいのだろう。
 命がかかっている戦場という非日常の空間でも人間的な諸々が発生する。が,この映画に登場する人たちは,誰もが魅力的だ。そういうふうに作ってあるのだといってしまえばそれまでだけれども。

● フランク・サヴェージ准将(グレゴリー・ペック)とキース・ダヴェンポート大佐(ゲイリー・メリル)の司令部の作戦をめぐる丁々発止のやりとり。
 立場が入れ替わったあとの,2人のやりとりも含めて,この映画の半分は2人の会話でできている。

2018年6月11日月曜日

2018.06.09 宇都宮市民プラザ ウィークエンドシネマ 「荒野の決闘」

宇都宮市民プラザ 多目的ホール

● 1946年のアメリカ映画。監督は「駅馬車」のジョン・フォード。主演はヘンリー・フォンダ。「西部劇映画の古典的な作品」「詩情溢れる西部劇の傑作」との評に異論はない。
 先住民を無条件に犬猫扱いしているのは,今となってはアメリカの恥部ではあろうけれど。

● この映画は学生時代に,その当時あった3本立ての名画座で間違いなく見ている。見ているはずなんだけども,記憶にはまったくとどまっていない。
 だから,初めて見るも同然で,かえってお得な気分でもある。

● ガッツ石松のギャグ(?)に“オーケー牧場”というのがあったけれども,OK牧場はここから来てたんですね。
 最後の決闘の場所になったのがOK牧場。かといって,決闘のシーンはさほどに長くないし,そこがこの映画のハイライトかというと,そうでもあり,そうでもなし。

● 原題は「My Darling Clementine」(愛しのクレメンタイン)。そのクレメンタイン(キャシー・ダウンズ)が脇に回っているんだけど,この映画はいろんな見方が可能だ。
 「荒野の決闘」という邦題がよかったのかどうか。たぶん,よかったんだろうけど。

● ヘンリー・フォンダ,かっこ良すぎ。蓮っ葉なチワワを演じたリンダ・ダーネルも。チワワ,いい女だなぁ。
 いい女っていうのはさ,階層,年齢,職業を問わず,あらゆるところにいるよね。しかも,その比率も,階層,年齢,職業を問わず,ほぼ同一。どうもそんな感じ。
 で,それを知覚できるかどうかは,こちら側の問題。知覚できたとして,彼女たちに相手にしてもらえるかどうかは,なお一層,こちら側の問題。

2018年5月23日水曜日

2018.05.19 宇都宮市立視聴覚ライブラリー 日本映画劇場 「魔像」

宇都宮市立東図書館 2階集会室

● 1952年公開の邦画。阪東妻三郎主演の娯楽映画。噂に聞く阪東妻三郎はこういう顔の男であったのか。原作は林不忘。

● 奉行所務めの新参役人の神尾喬之助を阪東妻三郎が演じる。これが職場で虐められて,それを女房にこぼすという情けないヤツで。
 じつは奉行所の役人が揃って賄賂まみれになっているのをどうにかしようとしている正義の味方。だものだから虐めの対象になっているというわけだった。しかも,この男,険の腕は立つのだった。

● 虐めに耐えかねてか,堪忍袋の緒を切ってか,神尾は同輩の一人を斬り殺してしまう。ここから物語が動きだす。
 茨右近という,これも何者かよくわからないヤツが登場する。喧嘩請負業とでもいうのか。善意のヤクザとでもいうのか。アウトローの世界に生きている。これを阪東妻三郎が二役で演じる。「魔像」というタイトルの所以だろうか。
 最後はテレビの時代劇と同じで(テレビの方がこちらと同じというべきなのだろうが),めでたしめでたしで終わる。

● 女優陣は若き津島恵子と山田五十鈴。
 津島恵子といえば,テレビで上品なお婆さん役を演じていたのしか知らなかったのだが,絶対美人とでも言うべき若い頃の相貌を,今回初めて見ることができた。

● 当時の映画だから,上層階層の娯楽だったはずだ。と思って見ると,ありがたいものに思えてくるし,当時はこれが娯楽の先端だったのだなと感慨に浸ることもできる。

2018年5月22日火曜日

2018.05.19 宇都宮市立視聴覚ライブラリー 20世紀名画座 「郵便配達は二度ベルを鳴らす」

宇都宮市立東図書館 2階集会室

● 1946年のアメリカ映画。原題は「The Postman Always Rings Twice」だから,邦題を変えているわけではない。映画を見終えたあと,このタイトルは秀逸だと思った。
 ジェームズ・M・ケインの原作のタイトルがそうなっているんだから,これは原作者のセンスということになるのだが。

● 雇い主の奥方(ラナ・ターナー)と雇われ人(ジョン・ガーフィールド)が恋仲になり,自分たちの結婚の障害になっている雇い主(セシル・ケラウェイ)を殺してしまおうとするわけだから,とんでもない話なのだ。
 雇い主は善人の塊のような人で(吝嗇ではあるのだが)何の咎もない。

● が,奥方も雇われ人も悪事を実行したことによる傷をあまり受けていないようなのだ。大義のためだったとでも思っているような。
 それが観客にも伝染する。この二人に感情移入してしまう。そういう作られ方になっている。二人の悪事が上手く行ってくれと思いながら見てしまうのだ。

● ストーリーにも不自然なところがある。二人して駆け落ちする。そのままどうにかなっていれば,何も問題はなかったのだ。が,奥方の方が帰ると言いだしてしまう。理由は単純で,こんな先の見えない生き方よりも,今までの安定した生活の方がいいというわけだ。
 自分との未来よりも過去を選んだのだから,ここで二人の仲は終わりを迎えて然るべきではないか。それがそうならないのは,男の側が惚れた弱みを見せるからだ。そんなものを見せる男は,女にすればそれだけでバイバイする理由になるではないか。

● この映画の見所は,二人して収監され,裁判を受けることになるところ。男が,女に責任をかぶせた調書にサインするよう求められ,それに応じてしまう。それを知った女が怒りを爆発させるところだ。ここでのラナ・ターナーはお見事としか言いようがない。
 しかし,それでも二人の仲が継続していくのは,何とも不可解。二人は法律上も夫婦となる。大小のトラブルを片付けていく中で,絆は深まっていくようだ。

● しかし,男は子供で女は大人だったという結論で終わる。バランスの取れた結論で,見ているぼくらも納得する。同時に,演じているラナ・ターナーの神秘性(?)が増す仕掛けにもなっている。
 それはさておき。洋画というのは,主演女優の圧倒的な美貌を堪能するものだとも思っている。ラナ・ターナーのあまりの美しさに声も出なかった。

2018年4月17日火曜日

2018.04.15 宇都宮市立南図書館名作映画会 「虹色ほたる ~永遠の夏休み~」

宇都宮市立南図書館 サザンクロスホール

● 2012年公開のアニメーション映画。音楽は松任谷正隆が担当。主題歌を歌うのは松任谷由実。

● 小学6年生のユウタが1977(昭和52)年の村にタイムスリップする。村がダムの底に沈む前の最後の夏。そこで,さえ子(小3)やケンゾー(小6)たちとひと夏を過ごす。
 子供には神が宿っているという,“子供=神”観がベースになっているのかなぁ。何度か涙腺が緩んでしまった。

● 主役の子供たちの他に,重要な役として登場するのは年寄り。青天狗と呼ばれているほたる神社の神主。さえ子を世話しているおばあちゃん。それから,ユウタをタイムスリップさせた蛍じい。
 壮年期の大人は基本的に登場しない。ユウタの両親もほんのわずか出てくるだけだ。子供と老人だけで物語が展開していく。神性を宿す子供たちと,賢人の象徴と思われる年寄り。要するに,人間は後ろに引っこんでいる。

● 昭和52年というとぼくは大学生だったんだけど,いくら何でもこの映画に描かれているような光景は存在してなかったぞ。
というか,昭和52年に過去にタイムスリップするアニメ映画を作ったとしても,その過去はやはりこんな感じに描かれただろうなと思った。
 テレビが家の一番いい場所にあって,チャンネルはつまみを回す方式で,画面から離れて見るように大人から注意されるのだ。「三丁目の夕日」とあまり変わらないような。

● 昭和52年にさすがにこれはなかったでしょ。インターネットもパソコンもなかったけれども,水洗トイレはけっこう普及していたぞ。生活の快適さは,今と較べてもそんなに差はないような気がするなぁ。
 でも,今の子どもたちには,昭和52年はこんなふうにイメージされているのかもしれないね。

2018.04.14 宇都宮市民プラザ ウィークエンドシネマ 「心の旅路」

宇都宮市民プラザ 多目的ホール

● 1942年のアメリカ映画。記憶喪失になった富豪のチャールズ(ロナルド・コールマン)と天使のようなポーラ(グリア・ガースン)の恋物語。
 記憶喪失のまま病院を脱走したチャールズがポーラと出会って,結婚し,子供も生まれる。仕事の面接のためリバプールに出向いたときにタクシーに跳ねられる。その衝撃で,昔の記憶は戻ったものの,その後の記憶を失ってしまう。もちろん,ポーラのことも。
 この映画,悪人が一人も出てこない。後味がいいのはそのせいか。

● この映画の見所の第一は,何といってもグリア・ガースンの美しさだと思うんだけど,劇中のポーラがマーガレットと名前を変えてチャールズの秘書として登場したときに,ぼくはポーラとマーガレットが同じ女性だと気づかなかった。
 何なのだ,この顔認識の杜撰さは。ぼくはグリア・ガースンの美しさを本当にわかっているんだろうか。

● もうひとつは,ロナルド・コールマンのかっこよさ。彼は1891年生まれだそうだから,このとき51歳。しかも,76年前の51歳。この年齢でこういう役が様になるんだから,ハンサムは得だなぁ。
 あやかりたいものだと思った。が,普通の男性はあやかりようがないだろうね。

● 最後はその記憶を取り戻して,ハッピーエンドで終わる。ところが,その記憶を取り戻すところを見ることができなかった(つまり,途中で終わってしまった)。ぼくだけじゃなくて,観客の全員が。
 なぜなら,物語が佳境に入る終盤でDVDが止まってしまったから。機械に詳しい人がいればどうにかしたんだろうと思う。が,映す側も観客もあらかた年寄りばかりなのだ。手も足もでないのだ。残念。

● これで見たことになるんだろうか。ならないよねぇ。
 宇都宮まで行く電車賃より,DVDを買ってしまった方が安いはずだし,アマゾンのプライム会員になればたぶん無料で見られるだろう。そうすればすむ話ではある。
 ただ,若い頃に昭和の空気を吸ってしまった人間は,映画だけは大勢の人たちにまぎれて,大きなスクリーンで見たいと思ってしまうんですよ。
 ま,昭和原人の中にも,そうじゃない人がいるとは思いますけどね。

2018年3月31日土曜日

2018.03.17 宇都宮市立視聴覚ライブラリー 20世紀名画座 「ハムレット」

宇都宮市立東図書館 2階集会室

● 1948年のイギリス映画。1939年の「嵐が丘」でヒースクリフを演じたローレンス・オリヴィエが監督と主演を務めた。
 シェイクスピアの戯曲の映画化ということ。ぼくは著名なこの「ハムレット」のストーリーをこの映画で初めて知ることができた。

● ハムレットっていうと,決められない男の代名詞。例の“to be or not to be”なんだけど,この映画でのハムレットは優柔不断という感じではない。文学青年で大人になることを拒否している,という感じはするけれど,果敢に判断して素早く行動する。原作とはだいぶ違っているんだろうか。
 弟に殺された先王(ハムレットの父親)の亡霊が隠れた主役と思いたくなるほどだが,弟であるクローディアスを演じたベイジル・シドニーも存在感がある。

● 父親の死後,その弟(ハムレットからすれば叔父)とすぐに結婚した母親ガートルード(アイリーン・ハーリー)をハムレットは糾弾するわけだが,映画のこの母親がすこぶる若い。というか,ハムレットを演じるローレンス・オリヴィエがオッサンになってるわけだが。そこの違和感はどうしてもある。
 オペラを見ているつもりで,脳内で補正しなければいけない。

● 少し長いこともあるけれど,見終えたあとはけっこう疲れを感じる。ただし,決して不快な疲れではない。ギュッと密度の濃い映画だと思った。
 しかし,ぼくのようなヘタレは,これをもう一度見るのはちょっとシンドイなと思ってしまう。

● 東図書館のこの催しは月に1回。毎回,見かける人がいる。年齢はぼくよりだいぶ若い。前から会釈はするようになってたんだけど,今日はこちらから話しかけてみた。
 大きなスクリーンで見ると迫力が違うからとか,家で一人で見ても何だかつまらないですからねとか,そんな話をポツポツとしただけだけど。

● 彼,広島か四国の瀬戸内側とおぼしき言葉で喋る人だった。栃木に越してきて間もないようだ。
 この言葉は栃木ではなかなか受け入れられないだろうから,ひょっとすると,喋りたいのに喋れない状態になっているかもなぁと思った。なってないかもしれないけどね。

2018.03.17 宇都宮市立視聴覚ライブラリー 日本映画劇場 「一人息子」

宇都宮市立東図書館 2階集会室

● 今回も小津作品。1936(昭和11)年公開。
 信州の生糸工場で働きながら女手ひとつで息子(良助:葉山正雄)を育てている母親(おつね:飯田蝶子)。その息子が成績優秀。担任の大久保先生(笠智衆)は上の学校に行かせたいと思っているし,良助もそう思っている。
 が,おつねにすれば,そんなのは経済的に論外である。しかし,先生の説得(これからの時代は「学問」ですからなぁ)もあり,亡き夫が残した屋敷を売ってでも,良助に「学問」をさせようと決心する。

● 「学問」が実利を生んだ時代があったのだなぁ。勉強や学歴に希少価値があった時代。希少だから価値があった。ほとんどの人は,学問など関係のないところで,日々の体験を元に生きていた。だからこそ,「学問」をつけることに意味というか実利があったわけだろう。
 大久保先生自身,田舎の教師を辞めて,東京に出てさらに勉強しようとする。向学心に燃えているというより,出世欲みたいなものだったのだろう。今の価値観で測って,だからダメだというのはよろしくないのだが。

● しかし,時代は厳しかった。おそらく昭和恐慌が舞台だろうか。せっかく東京の大学を出ても,良助(日守新一)は夜学の高校の教師にしかなれていない。薄給で暮らしはカツカツだ。
 上京したおつねに,良助は成功している自分を見せようとするのだが,結局は馬脚を現すことになる。あの大久保先生も売れないとんかつ屋に身をやつしていた。
 帰郷したおつねは,友人に苦しげに良助のことを語る。自分の苦労は報われなかった。

● 後の「東京物語」を思いだす。「東京物語」ほど救いのない結末ではない。したがって,「東京物語」の原節子にあたる天使の登場も要しない。
 救いはある。良助は母親をもてなそうと全力を尽くし,妻の杉子(坪内美子)もよく献身する。それは見栄かもしれないし,時代が強制するものなのかもしれないけれども,ともかくそういう息子に育ってくれたのだ。いい嫁を引きあてたのだ。

● 逆に辛いシーンもある。最後に良助はもう一度勉強して,もっといい職に就けるように頑張るよ,と杉子(と信州に帰った母親)に宣言するのだが,おそらく虚しい努力になるだろうと思わせる。厳しい時代状況に対するに,そういう上品な対応ではたぶん無力だろうな,と。
 インテリは修羅場に弱いというのがテーマなのかといえば,もちろんそうではない。しかし,良助がおつねに,東京になんか出ないで田舎で暮らしたかったと打ち明けるシーンでは,もしそうしていれば,何で東京に出してくれなかったのだ,と言うに違いあるまい,と観客は思うだろう。ぼくは思った。その弱さがなぁ,と。

● 昭和恐慌はひとしなみに個人を押し流したのだろうな。青雲の志も,ささやかな家庭の営みも。
 そして10年後には太平洋戦争が始まり,東京は焼け野原になるのだ。

2018年2月21日水曜日

2018.02.17 宇都宮市立視聴覚ライブラリー 日本映画劇場 「父ありき」

宇都宮市立東図書館 2階集会室

● 先月の「戸田家の兄妹」に続いて,小津作品「父ありき」。1942(昭和17)年の作品。
 洋画がヒッチコックなら,邦画は小津安二郎。小津作品もぜんぶ見たいもの。こちらも急がずゆっくりと。

● 小津作品には欠かせない笠智衆が父の堀川周平を演じ,息子・良平に若き佐野周二。が,その少年時代を演じた津田晴彦が,子どもの健気さを演じて秀逸。この人,このあとどうなったのだろう。子役で終わったんだろうか。

● 2つ感じるところがあった。ひとつは,自分は息子にここまでの愛情を注いだろうか,ということ。否。はっきりと否。
 息子が幼かった頃の彼に対する自分の振る舞いを思いだして,息が苦しくなるような思いがした。自分はダメだった。じつに父親失格だった。堀川周平の1割ほどでも息子を思ってやっていれば。
 
● もうひとつは,どんなに素晴らしい親でも子供に迷惑をかけないでいることはできないのだ,ということ。子供はどうしたって親の犠牲になるものなのだ。
 その子が親になってもまた同じことを繰り返さざるを得ないのだ。それでも子供は育っていくのだ。

● アマゾンを見たら,「小津安二郎大全集」が1,833円で販売されていた。「東京物語」など代表作が9つ収められている(「父ありき」も入っている)。1作あたり200円。これほどのものがこの値段で買えて,自宅で見れる。
 いやはや,恐ろしいというかありがたいというか,とんでもない時代になったものだ。この映画が上映された当時は,映画なるものは都市部の上流階級の人たちの娯楽だったはずだ。
 今現在,ぼくらにはできなくて,上流階級にのみできる娯楽って何かあるんだろうか。あるんだろうけど,それが何なのか,ぼくにはわからない。

2018.02.16 宇都宮市立視聴覚ライブラリー 20世紀名画座 「パラダイン夫人の恋」

宇都宮市立東図書館 2階集会室

● ヒッチコック作品「パラダイン夫人の恋」(1947年 アメリカ)を見た。この「20世紀名画座」のおかげで,ヒッチコック作品をずいぶん見ることができたのはありがたい。

● 映画って見るべき時期があると思う。というのは,若い頃に「第三の男」だけは見ているのだけども,ほとんど記憶に残っていないんですよね。
 あの頃って,頭に引っぱられて見ていたと思うんですよ。和田誠さんの『お楽しみはこれからだ』なんかを読んで,そうか,映画を見ないとダメなのか,と思ってね。
 旧制高校生がわかりもしないのに哲学書を読むような感じといいましょうかね。勉強のために映画を見るみたいな。

● ところが,20代の自分は呆れるほど幼かったのだと思う。「第三の男」を見ても,その綾を理解することができなかったのだろう。だから,何も記憶に残っていないのだ。
 ヒッチコックを自分なりに楽しめるようになるためには,人生の残り時間がだいぶ少なくなった今を待たなければならなかった。そういうことなのだと思う。
 だから,映画を見る時期としては,今が絶好なのだ。

● ヒッチコックの代名詞といえば,「サスペンス映画の神様」。全編をおおう緊張感。弛みがないというか,なくてもいいシーンがないというか。
 幸いなことに,未見の作品がまだまだたくさんある。DVDをまとめ買いして一気に見るなんてことはしないで,ゆっくりと楽しんでいければと思う。

● この作品ではパラダイン夫人(アリダ・ヴァリ)の得体の知れなさがすべての源泉で,ほんとうに夫を殺したのか,濡れ衣なのかが,最後までわからない。
 使用人のアンドレ(ルイ・ジュールダン)との関係,アンドレの夫への忠誠,パラダイン夫人の過去。それらが絡み合って,こちらをスクリーンに引きつける。

● 作中でしっかり生きているのは,パラダイン夫人やゲイ・キーン(アン・トッド)など,女衆。男どもはどうも上っ面でいかんなぁ。

2018年2月20日火曜日

2018.02.11 宇都宮市立南図書館名作映画会 「シェーン」

宇都宮市立南図書館 サザンクロスホール

● 「シェーン」は間違いなく学生のときに見ている。当時住んでいた街の名画座で。が,見事に忘れていたね。カラーだったことも。記憶の中では白黒だったんですよ。

● 1953年公開のアメリカ映画。監督はジョージ・スティーヴンス。
 シェーン(アラン・ラッド)が西部の開拓村にやってくる。そこは牧畜派(旧住民)と農業派(新住民)が土地をめぐって対立していた。
 シェーンは新住民の屋敷に身を寄せる。そこには,農業派の中心人物,ジョー・スターレット(ヴァン・ヘフリン)がいた。働き者で侠気に溢れたナイスガイだ。
 その妻マリアン(ジーン・アーサー)と息子のジョーイ(ブランドン・デ・ワイルド)とともに,日々を送ることになる。ジョーイは子どもの目ですぐにシェーンの人的価値を見抜き,懐いていく。
 シェーンとマリアンは互いに惹かれあうが,別に事件が起きるわけではない。が,ジョーはそのことに気づいている。

● 新旧住民の対立がいよいよのっぴきならないことになり,シェーンは旧住民が雇った早撃ちの名手ジャック・ウィルスン(ジャック・パランス)と対峙する。
 早撃ちはシェーンが一枚も二枚も上手だった。あっけなく決着がつく。が,シェーンも傷を負う。このあと,シェーンはスターレット家に戻ることなく,一人で去っていく。そこでジョーイが“シェーン カム・バック!”と叫んで終わる。

● 主役のアラン・ラッド,クールなインテリといった風情なんだけど,細マッチョなのかね。ちゃんとのっぴきならない恋愛模様もあるわけで,娯楽映画の王道を行く。
 展開もスリリングで,何度見ても見飽きない映画だと思った。

宇都宮市立南図書館
● ところで,この映画は市で行っているものだから無料だ。なんだけど,南図書館まで往復すると,電車賃が640円かかる。DVDを買ってしまった方が安い。
 が,家で一人で見れるほどに,ぼくは映画好きではないようだ。移動時間を買うという感覚もあってね。移動にはそれ自体,価値がある。小さな移動でも。

2018.02.10 宇都宮市民プラザ ウィークエンドシネマ 「嵐が丘」

宇都宮市民プラザ 多目的ホール

● 1939年のアメリカ映画。監督はウィリアム・ワイラー。キャシー(マール・オベロン)とヒースクリフ(ローレンス・オリヴィエ)の恋物語。
 オベロンとオリヴィエが反目しあっていて,撮影はなかなか大変だったとは,Wikipediaから得た豆知識。

● エミリー・ブロンテの原作は読んだことがないんだけど,「嵐が丘」ってハーレクイン・ロマンスの1冊なのかい?
 というのは,キャシーもヒースクリフも大人になりきれてないんだよね。いうなら,大人になれない中年男女の純愛物語といった感じなんだよ。特にキャシーは二重人格的なところがあって,物語の展開がわりと御都合主義だと思ってしまった。
 まぁ,原作と映画とでは,微妙に違うのが常だろう。細部が違うと受ける印象はけっこう違ってくるものだとは思うんだが。

● しかも,2人が純愛を貫くおかげで,周りの人は不幸になっていくんだよね。そうまでして貫かなければならない愛なんて,あっていいのかと思うよ。
 それでも若いときにはやってしまうことがある。でも,いい年こいてもなおっていうのはなぁ。

● ま,これは映画の世界の話。リアルにはないことがあるから映画なのだ。そうなのだと思うことにする。
 が,もう一度見たいかと問われれば,一度で充分というのがぼくの答え。

2018年1月23日火曜日

2018.01.20 宇都宮市立視聴覚ライブラリー 20世紀名画座 「真昼の決闘」

宇都宮市立東図書館 2階集会室

● 1952年製作のアメリカ映画。監督はフレッド・ジンネマン。
 さすがにこの映画は過去に見たことがある。学生時代に名画座で見たのか,テレビの洋画劇場で見たのかは定かでないけど,見たことがあるのは憶えている。
 が,それも記憶違いかもしれないな。見ていないのに,有名な映画だからこれは見ているはずだというのが,見たことがあるに変容してしまっているのかもしれない。

● ということで,有名すぎる西部劇映画。ゲイリー・クーパー扮するケイン保安官が,一人で腕っこきのならず者四人を相手にしなければならなくなる。
 治安判事は逃げだすし,ケインの前任者も補佐の保安官も手伝ってはくれない。命が惜しい。悪い人たちではないし,弱虫というわけでもない(そういうふうには描かれていない)。それほどこの街に戻ってくるフランク・ミラー(イアン・マクドナルド)が強いというわけだ。

● そうしてミラーが戻ってくる正午までを盛りあげる。どうなってしまうんだろう,と。ケイン保安官は四人を相手にして勝てるほどの腕ではないようなのだ。
 「この映画の上映時間は85分だが,劇中内における時間経過もほぼ同じ約85分ほどの「リアルタイム劇」となっている」とはWikipediaに教えてもらったこと。なるほどこの効果もあったのかと,あとで思いあたった。

● で,ミラーが戻ってきたあとは,意外にあっけない。要するに,この映画はケインと新妻エミィ(グレイス・ケリー),ケインとヘンダーソン町長(トーマス・ミッチェル),そしてハーヴェイ・ベル保安官補(ロイド・ブリッジス)のケインやヘレン(ケティ・フラド)との絡みが見所ということなのだろう。
 もうひとつの見所は,グレイス・ケリーのこの世のものとは思えない美しさでしょうね。
 が,存在感という意味なら,グレイス・ケリーよりケティ・フラドの方が印象に残る。

● このとき,ゲイリー・クーパーは50歳を越えている。この時代だ,すでに人生の晩年にさしかかっているといっていいだろう。
 なのに,若いエミィを妻にするとは荒唐無稽ではないか。と,言ってはいけない。ヒーローは既存の枠の外にいるのだ。何をやっても許されるのだ。

2018.01.20 宇都宮市立視聴覚ライブラリー 日本映画劇場 「戸田家の兄妹」

宇都宮市立東図書館 2階集会室

● 1941年(昭和16年)公開の小津安二郎作品。太平洋戦争が始まった年。しかし,作品の中にはそんな様子は微塵も出てこない。
 この時期,国民生活はまだまだ平穏で,中国大陸での戦いは遠い世界の出来事だったようだ。

● 戦前の日本の上流階層が舞台。戸田家の当主が亡くなり,借財の整理に本宅や書画骨董を処分することになった。母(葛城文子)と三女の節子(高峰三枝子)は行き場がなくなる。
 で,長男や長女のところにお世話になるわけだけども,お約束のとおり邪魔者扱いされる。後年の「東京物語」を思わせる。

● 「東京物語」の原節子演じる紀子の役回りが,ここでは次男の昌二郎(佐分利信)。
 気楽な独身だから何だって言えるよっていう気がしなくもないんだけども,彼なら所帯を持っても変わらないだろうな,とは思わせる。

● 高峰三枝子って,怖いオバサンという印象しか持ってなかった。つまり,年をとってからの役どころしか知らない。
 が,彼女にも若いときはあった(あたりまえだ)。当時から個性的な顔つきだったんだね。

● “宇都宮市立視聴覚ライブラリー 日本映画劇場”では今月から3回連続で小津作品を上映する。楽しみだ。
 こういう往年の名画って,DVDが300円とか500円で買える。電車賃をかけて東図書館に来るより,DVDを買ってしまった方が安い。けれども,ひとりでパソコンの場面で(あるいはテレビにつないで)見るかというと,どうもぼくは見ないような気がする。映画は外で見るものという刷り込みがあるんだろうか。