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2022年9月28日水曜日

2022.09.27 麦秋

Amazon Prime Video

● Amazonプライムでも小津映画を見ることができる。もちろん,全作品ではないのだが,まだ見ていない小津映画をAmazonプライムで見ることができるとは,何だか得した気分だ。
 「麦秋」(1972年)を見るのは二度目になる。2010年12月に「第2回鹿沼市民文化センター名作映画祭」で見て以来。

● 見たことだけ憶えているが,内容はほぼ完全に忘却の彼方。忘れるというのは福音であるかもしれない。
 忘れればこそ,日々新たも成り立つのだろう。過去を完全に憶えていたら,かなりの修行を積んた高僧といえども,日々新を実践するのは困難ではないか。

● 劇中の紀子(原節子)は丸の内に社屋を構える会社の専務秘書という設定。英文タイプライターを操る。当時は珍しかった大卒女子であるのかもしれない。
 実家は北鎌倉にあって(由比ヶ浜も何度か映像に使われている),北鎌倉から東京まで電車通勤をしている。

● 「晩春」では父と娘の関係だった笠智衆とは,本作では兄妹。「東京物語」では東山千栄子と笠智衆が夫婦だったが,本作では親子になっている。実年齢からすれば親子の方が自然かもしれない。
 「晩春」では父の恋人と思い込んだ女性に紀子がガンをつけるシーンがあるのだが,その女性を演じた三宅邦子が,本作では紀子の兄嫁。
 他に,淡島千景,杉村春子,高橋豊子など,小津映画ではおなじみの面々が,安定した演技で画面を整えている。

● ウィキペディア教授の解説によると,「小津自身は,本作において「ストーリーそのものより,もっと深い《輪廻》というか《無常》というか,そういうものを描きたいと思った」と発言しており,小津とともに脚本を担当した野田高梧は「彼女(紀子)を中心にして家族全体の動きを書きたかった。あの老夫婦もかつては若く生きていた。(中略)今に子供たちにもこんな時代がめぐって来るだろう。そういう人生輪廻みたいなものが漫然とでも感じられればいいと思った」と語っている」らしい。
 しかし,この映画を見て輪廻や無常を感じられる感性を持つ人は少ないかもしれない。ぼくはそうしたものを感じることはなかった。

● では何を感じたのかと問われれば,たとえば原節子と淡島千景のやり取りのテンポの良さに快を感じていた。
 映画はすべて娯楽映画として見ようとする癖があって,娯楽的な要素を探そうとして見ているのだと思う。

2022年4月28日木曜日

2022.04.28 秋刀魚の味

DVD(デジタルリマスター修復版)

● 「秋刀魚の味」(1962年)。最後の小津作品。
 「秋刀魚の味」とは言いながら,秋刀魚が小道具的に使われているわけではない。

● 小津ファミリーと呼びたくなるほどに小津作品の多くに出演している俳優たちが,親子になったり,職場の同僚になったり,夫婦になったりして,いろんな関係を演じている。
 が,この映画には岩下志麻が出演している。彼女が出ている小津映画はこれだけ。

● その岩下志麻の美貌を見ることができるのが,この映画の肝のひとつ。後年,「極道の妻たち」で嗄れ声で啖呵を切るシーンのイメージが濃く残っているんだけれども,どっこい,とんでもなく正統派の美人だったわけですよ。
 この映画も一度見ているのだけれども,彼女の美貌を憶えていたのがもう一度見てみようと思った理由です。
 ちなみに,彼女の出生地は東京の銀座(当時の地名は東京府東京市京橋区)。

● 他の女優陣は岡田茉莉子,三宅邦子,岸田今日子,杉村春子,環三千世。男優は主役の笠智衆,佐田啓二,中村伸郎,北竜二,東野英治郎,加東大介。
 娘を嫁がせた父親の虚脱を笠智衆が演じる。「晩春」ではリンゴを取り落とすシーンでそれを象徴したが,この映画ではもう少ししつこく,その虚脱を演出している。

● この映画を見ていると,男女が結婚して家庭を持つのは子どもを産んで育てるためなのだな,という当たり前のことに気付かされる。それを伝える成分を濃く含んでいるように思われる。
 それゆえ,結婚したら第一義とすべきは子育てであって,自分のことは二の次三の次にしなければいけないと覚悟すべきなのかも。ぼくはその覚悟において欠けるところがあった。

● 岩下志麻の路子が兄の幸一を訪ねて,電車で帰るシーンがある。そのときの駅は東急池上線の石川台駅。
 幸一はこのあたりの団地に住んでいるという設定だったろうか。今でいうと大田区。

● 幸一は中古のゴルフクラブを友だちから購入している。1962年にゴルフをやっていたのだから,当時の日本の平均よりはかなり上の暮らしをしている。
 この頃はまだ二重構造という言葉が生きていた時期か。大企業と中小企業の格差,都市部と農村の格差がクッキリしていた時代。

● 小津映画はこれですべてではない。まだ見ていないのがたくさんある。Amazonプライムに「+松竹」をオプションで追加すればあらかた見ることができるんだろうか。
 2週間までなら無料だ。この手を使って「釣りバカ日誌」は全部見ることができたんだけどね。

● 1カ月だけ「+松竹」を付けようか。300円ですんじゃう。
 それで小津作品のほぼすべてを見ることができるのであれば,当然,そうする。そうやってまだ見ていない分を見ていくことになると思う。

2022.04.28 彼岸花

DVD(デジタルリマスター修復版)

● 「彼岸花」(1958年)。10年以上前に一度見ている。小津作品としては初のカラー映画。
 女優陣が田中絹代,有馬稲子,桑野みゆき,久我美子,山本富士子,浪花千栄子と綺羅星のごとし。

● この映画で描かれているのは,結婚をめぐる親と娘の対立。娘の結婚を管理したがる親と,それを嫌がる娘。
 3つの家族が登場するのだが,嫌がる娘は有馬稲子,久我美子,山本富士子の3人で,(今の言葉で言うと)過干渉の親が佐分利信,笠智衆,浪花千栄子。
 母親の場合は折り合える余地があるのだが,父親の場合は娘としては実力行使に出ざるを得ない。父親との対話になど,和解の可能性を見いだすことはできない。

● 佐分利信が演じる父親の頑なさは,幼児的という言い方では足りないくらいに理由がない。娘の彼氏である正彦(佐田啓二)の交渉術の稚拙さが招いてしまった側面もある。交渉事で最短距離を行こうとしては失敗するに決っている。
 それにしても,父親は自身のメンツにこだわって,こだわっている自分を制御できないでいる。自分が折れるしかないとわかっているのに,自分から折れるのはメンツが許さない。自縄自縛とはこういうことだ。

● それを田中絹代演じる母親がとりなしていく。このあたりが男女の役割分担になっているっぽい。男はトラブルを作るのが役割で,それを解決するのが女の役割。男がトラブルを作り,女がそれを解決していく。
 ただ,その映画を作るに際して,脚本や映像は男が作っている。

● 父親はどこぞの会社の重役で,母親は専業主婦。東京のサラリーマン家庭なのだが,お手伝いさんを雇っている。ここで描かれている家庭は中流ではない。もっと上層に位置する。
 当時は “サラリーマン=エリート=少数派” だったのだろう。今では多くの人たちがこのような暮らしをしていると思うが,それは高度経済成長が作ってくれたものだ。
 そしてその高度経済成長は日本人の努力が産んだものではなく,当時の日本が置かれた客観条件による部分が大きい。日本は運が良かった。その恩恵をぼくらも受けている。

● 浪花千栄子の演技をこの映画で初めて見た。というか,この映画以外には見たことがない。
 本名が南口キクノで,昭和の御代に大塚製薬のオロナイン軟膏のCMに出ていたのは,リアルタイムで見ているんだけど。

2022年4月5日火曜日

2022.04.04 お早よう

DVD(デジタルリマスター修復版)

● 「お早よう」(1959年)。「東京暮色」から一転して,「郊外の新興住宅地を舞台に元気な子供たちにふりまわされる大人たちをコメディタッチで描いた」作品。

● 「子どもたちがオナラ遊びに興じる場面が出てくるが,「オナラ」を使ったギャグは小津監督がサイレント時代から温めていたアイデアだという」。
 オナラ遊びというのは,劇中の男の子の遊びで,自在に屁をひれるように訓練するという趣向。軽石を擦って飲むとできるようになると信じられている。

● この作品には主演者はいない。林家の兄弟(設楽幸嗣,島津雅彦)が主役だと言えば言えるが,佐田啓二,久我美子,沢村貞子,笠智衆,三宅邦子,東野英治郎,杉村春子らが出演。
 印象に残ったのは,押売りの男の殿山泰司。歳をとって飄々とした風情にあふれるようになる前はこうだったのか,と。あと,丸山みどり役の泉京子。現代でも通用する様式(?)の美貌。

● テレビが誕生して間もない頃。テレビのある家に子供たちが集まるシーンもある。1959年が皇太子ご成婚の年で,テレビの普及が200万台を超えたらしいのだが,この時期にテレビを買えるのはかなり凄いというか,だいぶ早いというか。どっと普及するのはここから5年くらいしてからではなかったか。
 都市なればこそという気がする。小津映画の舞台は都市だ。都市と都市で暮らす人たちの様相を記録してくれているという一面もあると思う。当時の農村は舞台にしようがなかったろうが。

2022年4月3日日曜日

2022.04.02 東京暮色

DVD(デジタルリマスター修復版)

● 「東京暮色」(1957年)。「小津にとっては最後の白黒作品であり,昭和の大女優,山田五十鈴が出演した唯一の小津作品でもある」。「ジェームズ・ディーンの代表作であるハリウッド映画『エデンの東』(1955年)の小津的な翻案とされる」。「次女明子役に当初岸恵子を想定していたが,『雪国』の撮影が延びてスケジュールが合わなくなったため,有馬稲子がキャスティングされた」。
 以上,ウィキペディア教授の解説。

● 長女の孝子に原節子。次女の明子が上記のとおり有馬稲子。姉妹の父親(周吉)が笠智衆。姉妹の母親で,夫の海外赴任中に部下と恋仲になって出奔したという設定の喜久子に山田五十鈴。
 他に,高橋貞二,杉村春子,山村聡,藤原釜足,中村伸郎など。

● ウィキペディア教授は「本作は戦後の小津作品の中でも際立って暗い作品である」とも言うが,たしかにずっしりと重い。
 明子は独り相撲に堕ちて出口が見えず,孝子は夫とうまく行かずに(どうも夫のDVではないかと思われる)実家に戻っている。周吉は銀行員で出世もしているが,娘たちがこんな状態のうえに,妻に裏切られた過去を持つ。喜久子は過去の呵責を背負って,上を見上げることができない。

● 唯一わからないシーンは,明子が死んだことを,孝子が母親に告げるところだ。「お母さんのせいよ」とひと言だけ言って帰ってくる。
 明子はおそらく飛込み自殺を図ったのだと思うのだが,最終的なトリガーとなったのは堕胎した子の父親である恋人の不実にあるので,母親はまったく関係ない。むしろ,明子が母親の言うことに聞く耳を持たなかったせいでもある。
 ということを観客(視聴者)は知っているのだが,孝子はそれを知らない。しかし,そうであっても「お母さんのせいよ」は心臓を刺しかねない言葉の暴力といえる。

● 孝子は夫のところに帰る決心をして,実際に帰っていく。収まるべきところに収まったという扱いになっているのだが,今なら止めるべきだということになるかもしれない。
 孝子は子供のために両親が揃っていた方がいいというのだけれども,それも状況によることは現代人にとっては常識になっている。この時代は,耐え難きを耐えてでも鞘に収めるのが良しとされていたのだろう。
 というか,そういう時代がつい最近まで続いていたような気分だが。

● 若いときの有馬稲子を見られる。登場している俳優たちの中では抜きんでて小顔。が,この時代は,女優であっても今ほどの小顔は少ないようだ。
 こういうのって不思議だよねぇ。小顔が珍重されだすと実際に小顔が増えるとは,どういう法則に基づくものかね。

2022年4月2日土曜日

2022.04.01 早春

DVD(デジタルリマスター修復版)

● 「晩春」は二度見ているが,「早春」(1956年)は見る機会を得ていなかったので,今回,DVDで。
 ウィキペディア教授によると,「東宝のスター俳優池部良と淡島千景を主演に,『君の名は』で一躍松竹の看板女優となった岸惠子を迎えて新味を出した作品」で「池部と岸にとっては唯一出演した小津作品であり,同じようなキャストを使い続けた小津にとっては異例であった」とのこと。

● 上記の3人の他に,高橋貞二,笠智衆,山村聡,杉村春子,浦邊粂子,三宅邦子,東野英治郎,中北千枝子など。淡島千景が終始,凛としていて,かっこいい。
 淡島千景が演じた昌子の母親役が浦邊粂子。彼女の演技も印象に残る。男なんてそんなものと娘を諭す。状況はすべて飲み込んだうえで,とぼけてみせる。“鈍感力” を発揮せよと娘にも言う。
 この達観は苦労人のもの。その辺の湛え方というか,外側へこぼす度合いが絶妙。脚本がそうなっているからというだけではないと思う。

● そして,笠智衆。小津映画には必ず登場する俳優。
 「東京物語」はこの映画の3年前。そこで完璧に老け役を演じておいて,ここでは現役のサラリーマンの役。「東京物語」のときはまだ40代だった。
 老け役ができる人は若い役もこなせるのかもしれない。劇中の役の話とはいえ,タイムマシンで時空を自由に動き回れるがごとし。

● DVDのパッケージの解説文には,「徹底して硬質な演技に終止する淡島千景と,自分の思いに任せて行動する千代に扮した岸惠子との静と動のヒロイン像が,どちらにもなびけない池部良の男の虚しさを浮かび上がらせている」とあるが,“男の虚しさ” を見る人はそんなに多くはないかもしれない。ぼくも虚しさは感じなかった。
 千代になびいてしまうわけにはいかないわけでね。池部良の正二が択った態度はこれしかないというもので,別に虚しいわけではない。

● 「小津はサイレント時代からサラリーマンの悲哀を何度も描いてきたが,ここでの正二や仲間のように,一様に将来を悲観した救いのなさに集約させたのは珍しい」ともある。が,この映画で描かれているサラリーマンたちに,救いのなさは感じなかった。
 劇中の人物たちがそういう話をするシーンは何度か出てくるのだが,彼らがどこまで本気でそう思っているのか。のんびりした時間が流れていて,今のサラリーマンたちは羨ましいと思うに違いない。古き良き時代があったのだなぁ,と。

● かつ,この頃のサラリーマンは言うならエリートだ。就労者全体に占める割合は小さかった。サラリーマンは庶民の憧れだったし,なりたい職業だった。大学まで行ってサラリーマンになることが,文字どおりの夢として語られる時代だったはずだ。
 劇中でお客が来るからと肉(たぶん牛肉)を買いに行こうとする場面があるのだけれども,この当時,日本の大半は田舎であり,ごく稀にであっても牛肉を食べられる家庭は,田舎にはほんの僅かしか存在しなかったはずだ。肉を食べることができたのはサラリーマンであればこそ。

● そのサラリーマンたちの飲み会の場面が何度も出てくるのだが,この頃のサラリーマンは飲みながらみんなで歌を歌っていたのかね。これだけはちょっと勘弁して欲しいぞ。
 カラオケなんてものはなかったから,流しのギター弾きに合わせて歌うか(ギターが歌に合わせてくれたはずだが),みんなで箸で器を叩きながら歌ったんだろうかね。そもそも歌うという行為がもてはやされていた時代だったのかね。
 歌声喫茶というのもあったらしいもんね。「客全員が歌う(合唱)ことを想定した喫茶店で」「1955年前後の東京など日本の都市部で流行し,1970年代までに衰退した」ようなのだが。

2022年3月31日木曜日

2022.03.30 風の中の牝雞

DVD(デジタルリマスター修復版)

● 「風の中の牝雞(かぜのなかのめんどり)」(1948年)。
 戦争が終わって3年後に上映された。戦後,いち早く復活したのが浅草の映画館だったと聞いたことがある。
 人々は満足に喰えない状態でも娯楽を渇望するものだというのが半分,映画人も何もしないで遊んでいるわけにはいかなかったというのが半分,だろうか。

● 「終戦直後の日本の女たちにふりかかった悲劇に小津安二郎が真正面から挑んだ異色問題作」で,どういうストーリーかというと,「戦争が終わり,困窮した生活の中で夫の復員を待ちわびている妻が,子供の病気の治療費のために一度だけ売春をしてしまった。まもなくして夫が帰還。しかし妻は良心の呵責に苦しみ,ついに真相を夫に告白してしまう」というもの。
 田中絹代演じる時子は,“ついに” というよりは至極あっさりと話してしまうのだが,これは話しちゃいかんだろうというね。この議論(?)は劇中でもなされるのだが,どう考えたって話しちゃダメでしょ。

● 秘密を持つのがイヤだっていうのは,荷物を持つのがイヤだというのと同じだもんね。あまりに幼稚でしょうよ。
 男女間で完全なるディスクロージャーを実施してますなんて,あり得ない。隠すつもりがなくて隠していることなんてたくさんあるわけで,そうだからこそ関係は維持される。
 墓場まで持っていく秘密はあって当然。それをできるのが大人だと言ってもいい。

● で,それを聞いた修一(佐野周二)の対応も,どうしよもないクズ男君なのだ。女々しい。「めめしい」は男々しいと書くのがいいかもしれないね。
 貞操に対する考え方というのは,今とはだいぶ違うのだろうけどねぇ。女性に対する縛りがキツかったと思うのだけれども,それにしてもねぇ。

● 根本には負担の不平等が横たわっている。女の負担が多すぎる。で,楽な方の男が優位に立つというのだから,何ともしょうがない。
 最後には,修一が時子に夫婦のあり方について訓示を垂れるんだが,馬鹿野郎,出来損ないの坊主が釈迦に説法するな,と思うしかないよね,これは。

● もうひとつ。時子は尽くしちゃうタイプなんだよね。自分を殺して相手を立てる,徹底的にそうする。これは火に油を注いじゃうよね。損なタイプだねぇ。
 最後はハッピーエンドと言っていいんだろう。とりあえず,形を作ってくれてありがたかった。

● 出演者は,田中絹代と佐野周二の他に,村田知英子,笠智衆,水上令子など。

2022年3月30日水曜日

2022.03.29 宗方姉妹

DVD

● 「宗方姉妹」(1950年)。原作がある。大佛次郎の同名小説。
 「因習にとらわれて生きる姉と奔放な妹を対比させながら変わりゆく家庭の姿を描いている」と言われれば,そのとおり。

● 姉の節子が田中絹代。妹の満里子が高峰秀子。他に,上原謙,高杉早苗,笠智衆,山村聡など。笠智衆が登場しない小津映画ってあるんだろうか。
 印象に残ったのが飲み屋「三銀」の女中役の堀越節子。現代的な風貌と演技。今どきのお嬢さんで通用するような。

● 時代が変わっても変わらない良きものは,間違いなくあるのだろうけれども,さすがに節子の処世術は現代ではあり得ない。報われない苦労をあえて選択するというレベルを超えて,これでは自分を虐待していると今の人なら思うのではないか。
 上原謙の宏が,報われなかったなんてことはありません,それであなたがよりあなたらしくなったのですから,という意味のことを言うシーンがあるのだが,その言い方でまとめきれるものなのか。

● 管理演技という言葉を作ってみた。演技に関して俳優に与えられた自由度はけっこう小さいのではないか。かなり細かく,ああせい,こうせい,という指示が監督から出ているっぽい。
 したがって,破綻なくまとまっているのだけれども,ひょっとすると演じる俳優陣には不完全燃焼感が残ったのではあるまいか。これまた,時代ということだろうか。

2022年3月29日火曜日

2022.03.28 お茶漬の味

DVD(デジタルリマスター修復版)

● 「お茶漬の味」(1952年)。
主演は佐分利信と木暮実千代。
 他に,鶴田浩二,笠智衆,淡島千景,津島恵子,上原葉子(加山雄三の母),三宅邦子など。津島恵子って若いときはこうだったのか。

● 「地方出身の素朴な夫(茂吉)と夫にうんざりする上流階級出身の妻(妙子),二人のすれ違いと和解が描かれる」のだが,和解の直接のキッカケはない。妻が友人たちに散々たしなめられるのだが,それが理由ではないだろう。
 ちょうどこうなるタイミングだったのだろうなと考えるほかはない。

● 「妙子は初めて夫の心の広さ,結婚生活のすばらしさを感じて,夫を心から愛するようになるのだった」っていうのはねぇ。いやそのとおりの展開なんだけれども,時代背景とでもいうものが大きく影響していますか。
 男尊女卑的な考え方が,建前だけだとしても残っていたのかな,と。中学生のときだったけれども,男のバカと女のリコウは匹敵すると口走った教師がいたっけな。ずいぶん,男に都合のいい話だよねぇ。

● その和解の場面。茂吉と妙子が2人でお茶漬けを用意して食べる。
 このときの木暮実千代の所作は妻のそれではない。銀座の “女給” か旅館の仲居か,職業として給仕して,職業として自らも食べる女,という感じ。
 要するに,色っぽすぎるのだ。こんな夫婦はいないぞ。

● 住込みのお手伝いさんを雇っている上流階層の夫婦の話だ。男たちはもちろん,女たちも煙草を吸う。この頃はそうだったんだろうか。パチンコや競輪も上流階層の遊びだったのだろうか。
 小津映画の特徴のひとつは脚本にある。上流階層の東京弁はこうだったのかと思わせる喋り口(もちろん,違うだろうが)。

2021年8月28日土曜日

2021.08.28 晩春

Amazonプライムビデオ プラス松竹

● まだプラス松竹の無料期間が残っているので,「晩春 デジタル修復版」(1949年)を見た。一度,公的セクターの上映会でやったのを見ている。

● これは恋愛映画だよね。娘の原節子が父親の笠智衆に「おもらいになるの? おもらいになるのね,奥さん」と詰るところは,古今の日本映画の中で最も色っぽいところだと思っていてさ。「男が後妻をもらうことに嫌悪感を抱いていた」という理由では説明がつかない。
 父親が再婚することを知ったあとに,嫉妬に苛まれる娘を演じる原節子の演技は鬼気迫るものがありますよ。たとえば
能を見ているときに,父親の婚約者(ではないのだが)を盗み見るときのこの表情なんてどうですか。

● 劇中で父親は56歳。で,お父さんはもうじき死ぬんだよ,という。それがリアルだった時代だね。
 あと,これほどの紳士がくわえ煙草を路上に捨てるシーンがある。日本人のマナーはなってなかった。昔を美化しちゃいけないよ。 

2018年3月31日土曜日

2018.03.17 宇都宮市立視聴覚ライブラリー 日本映画劇場 「一人息子」

宇都宮市立東図書館 2階集会室

● 今回も小津作品。1936(昭和11)年公開。
 信州の生糸工場で働きながら女手ひとつで息子(良助:葉山正雄)を育てている母親(おつね:飯田蝶子)。その息子が成績優秀。担任の大久保先生(笠智衆)は上の学校に行かせたいと思っているし,良助もそう思っている。
 が,おつねにすれば,そんなのは経済的に論外である。しかし,先生の説得(これからの時代は「学問」ですからなぁ)もあり,亡き夫が残した屋敷を売ってでも,良助に「学問」をさせようと決心する。

● 「学問」が実利を生んだ時代があったのだなぁ。勉強や学歴に希少価値があった時代。希少だから価値があった。ほとんどの人は,学問など関係のないところで,日々の体験を元に生きていた。だからこそ,「学問」をつけることに意味というか実利があったわけだろう。
 大久保先生自身,田舎の教師を辞めて,東京に出てさらに勉強しようとする。向学心に燃えているというより,出世欲みたいなものだったのだろう。今の価値観で測って,だからダメだというのはよろしくないのだが。

● しかし,時代は厳しかった。おそらく昭和恐慌が舞台だろうか。せっかく東京の大学を出ても,良助(日守新一)は夜学の高校の教師にしかなれていない。薄給で暮らしはカツカツだ。
 上京したおつねに,良助は成功している自分を見せようとするのだが,結局は馬脚を現すことになる。あの大久保先生も売れないとんかつ屋に身をやつしていた。
 帰郷したおつねは,友人に苦しげに良助のことを語る。自分の苦労は報われなかった。

● 後の「東京物語」を思いだす。「東京物語」ほど救いのない結末ではない。したがって,「東京物語」の原節子にあたる天使の登場も要しない。
 救いはある。良助は母親をもてなそうと全力を尽くし,妻の杉子(坪内美子)もよく献身する。それは見栄かもしれないし,時代が強制するものなのかもしれないけれども,ともかくそういう息子に育ってくれたのだ。いい嫁を引きあてたのだ。

● 逆に辛いシーンもある。最後に良助はもう一度勉強して,もっといい職に就けるように頑張るよ,と杉子(と信州に帰った母親)に宣言するのだが,おそらく虚しい努力になるだろうと思わせる。厳しい時代状況に対するに,そういう上品な対応ではたぶん無力だろうな,と。
 インテリは修羅場に弱いというのがテーマなのかといえば,もちろんそうではない。しかし,良助がおつねに,東京になんか出ないで田舎で暮らしたかったと打ち明けるシーンでは,もしそうしていれば,何で東京に出してくれなかったのだ,と言うに違いあるまい,と観客は思うだろう。ぼくは思った。その弱さがなぁ,と。

● 昭和恐慌はひとしなみに個人を押し流したのだろうな。青雲の志も,ささやかな家庭の営みも。
 そして10年後には太平洋戦争が始まり,東京は焼け野原になるのだ。

2018年2月21日水曜日

2018.02.17 宇都宮市立視聴覚ライブラリー 日本映画劇場 「父ありき」

宇都宮市立東図書館 2階集会室

● 先月の「戸田家の兄妹」に続いて,小津作品「父ありき」。1942(昭和17)年の作品。
 洋画がヒッチコックなら,邦画は小津安二郎。小津作品もぜんぶ見たいもの。こちらも急がずゆっくりと。

● 小津作品には欠かせない笠智衆が父の堀川周平を演じ,息子・良平に若き佐野周二。が,その少年時代を演じた津田晴彦が,子どもの健気さを演じて秀逸。この人,このあとどうなったのだろう。子役で終わったんだろうか。

● 2つ感じるところがあった。ひとつは,自分は息子にここまでの愛情を注いだろうか,ということ。否。はっきりと否。
 息子が幼かった頃の彼に対する自分の振る舞いを思いだして,息が苦しくなるような思いがした。自分はダメだった。じつに父親失格だった。堀川周平の1割ほどでも息子を思ってやっていれば。
 
● もうひとつは,どんなに素晴らしい親でも子供に迷惑をかけないでいることはできないのだ,ということ。子供はどうしたって親の犠牲になるものなのだ。
 その子が親になってもまた同じことを繰り返さざるを得ないのだ。それでも子供は育っていくのだ。

● アマゾンを見たら,「小津安二郎大全集」が1,833円で販売されていた。「東京物語」など代表作が9つ収められている(「父ありき」も入っている)。1作あたり200円。これほどのものがこの値段で買えて,自宅で見れる。
 いやはや,恐ろしいというかありがたいというか,とんでもない時代になったものだ。この映画が上映された当時は,映画なるものは都市部の上流階級の人たちの娯楽だったはずだ。
 今現在,ぼくらにはできなくて,上流階級にのみできる娯楽って何かあるんだろうか。あるんだろうけど,それが何なのか,ぼくにはわからない。

2018年1月23日火曜日

2018.01.20 宇都宮市立視聴覚ライブラリー 日本映画劇場 「戸田家の兄妹」

宇都宮市立東図書館 2階集会室

● 1941年(昭和16年)公開の小津安二郎作品。太平洋戦争が始まった年。しかし,作品の中にはそんな様子は微塵も出てこない。
 この時期,国民生活はまだまだ平穏で,中国大陸での戦いは遠い世界の出来事だったようだ。

● 戦前の日本の上流階層が舞台。戸田家の当主が亡くなり,借財の整理に本宅や書画骨董を処分することになった。母(葛城文子)と三女の節子(高峰三枝子)は行き場がなくなる。
 で,長男や長女のところにお世話になるわけだけども,お約束のとおり邪魔者扱いされる。後年の「東京物語」を思わせる。

● 「東京物語」の原節子演じる紀子の役回りが,ここでは次男の昌二郎(佐分利信)。
 気楽な独身だから何だって言えるよっていう気がしなくもないんだけども,彼なら所帯を持っても変わらないだろうな,とは思わせる。

● 高峰三枝子って,怖いオバサンという印象しか持ってなかった。つまり,年をとってからの役どころしか知らない。
 が,彼女にも若いときはあった(あたりまえだ)。当時から個性的な顔つきだったんだね。

● “宇都宮市立視聴覚ライブラリー 日本映画劇場”では今月から3回連続で小津作品を上映する。楽しみだ。
 こういう往年の名画って,DVDが300円とか500円で買える。電車賃をかけて東図書館に来るより,DVDを買ってしまった方が安い。けれども,ひとりでパソコンの場面で(あるいはテレビにつないで)見るかというと,どうもぼくは見ないような気がする。映画は外で見るものという刷り込みがあるんだろうか。

2015年12月19日土曜日

2015.12.19 宇都宮市立視聴覚ライブラリー 原節子さん追悼映画会「晩春」

宇都宮市立東図書館 2階集会室

● 1949年の小津安二郎作品。2010年12月に鹿沼市民文化センターの名作映画会で見ている。今回が2回目。
 と思っていたんだけど,2010年12月には見ていないのだった。いつどこで見たんだ?

● 父親(笠智衆)と娘(原節子)の交流。母親は早くに亡くなっているのだろう,ずっと娘が父親の世話をしてきた。
 娘は父親が自分の母親以外の女性と再婚することを不潔だと感じているらしい。娘が中学生や高校生ならばそれもわかるんだけど,劇中の娘は27歳だ。27歳でそのように考えるのは,少しくあり得ないように思われる。

● 娘が「おもらいになるの? おもらいになるのね? 奥さん」と父親に迫るところがある。これなんか恋人に対するがごとくだ。
 父と娘の間に,夫婦に似た情感が通うことがあるのだろうと思うほかはない。ぼくには娘がいないので,どうにもここは雲を掴むような話になるのだが。

● ともかく。自分は再婚するからおまえも嫁に行け,自分の面倒をみている必要はない,と娘に嘘をつき,娘を縁づける。
 その間の笠智衆の演技はじつにどうも淡々としたもので,力みやわざとらしさは1ミリも見られない。ずっとポーカーフェイスだ。役者の存在感は薄ければ薄いほどよいと考えているのか。

● 娘が嫁いだ日。式が終わって,自宅に戻り,来客もすべて去って,一人になったとき。
 リンゴの皮を剥いていた父親が突然うなだれて,リンゴを取り落とす。ここでこの映画は終わるんだけれども,ずっとポーカーフェイスでいたのは,このシーンのためだったかと思わせる。
 この演技だけが唯一,父親が娘と離れる辛さ,寂しさを抑えに抑えた動作で表現したところだった。

● 昨日は「東京物語」を上映したようだ。南図書館でも26日に「晩春」と「東京物語」を上映する。何度見てもいい映画だ。けれども,貪るのはよろしくないでしょうね。
 アマゾンを見ると,DVDが500円で買える。そういう時代なんだな。フィルムを一人占めして,自分専用にするなんて考えられない贅沢だった。それがデジタル化のおかげで(それと,著作権が切れたおかげで)現実のものになったわけだけれども,そうなってみると,そんなものは贅沢でも何でもなく,ただの寂しい行為に過ぎないことがわかった。

2013年6月12日水曜日

(2013.06.02 宇都宮市立南図書館名作映画会 「晩春」)

宇都宮市立南図書館 サザンクロスホール

● 1949年の小津安二郎作品。2010年12月に鹿沼市民文化センターの名作映画会に続いて,今回が2回目。
 父娘の物語。娘(原節子)が自分の面倒をみるために結婚に踏みきらないのを察した父親(笠智衆)が,自分も再婚すると偽る。

● 当時と今とでは世相が違いすぎる。特に女性にとっての結婚は,今よりずっと重いものだったろう。女性にはなかなか職もなかったし,あったとしてもいつまでも勤めるのは肩身が狭かった。
 ハイミスっていう言葉があったね。要するに,社会から受けるプレッシャーが今とは比較にならない。社会が放っておいてくれなかった感じね。
 寿退社が当然視されてたし,結婚年齢も23歳あたりが平均だったのではないか。だから,女子社員は文字どおり職場の花だった。若い子しかいないんだから。

● 今は世話焼きオバサンがいなくなって,自分で婚活をしなければならなくなった。婚活が産業になってしまって,それを飯の種にする人たちも出てきたわけだけど,これはこれでイビツかもね。
 出会いの場がなくなったなんて言われるけど,本当にそうなのかね。ぼくは疑っているんだけど。

● ともあれ,そうではあっても,当時と今とどちらがいいかといえば,圧倒的に今の方がいいと思っている。
 女性が経済的に男に頼る必要がなくなった。結婚しなくても生きていける。結婚はしなければならないものではなく,選択の範疇に属するようになった。あとは本人の意識の問題。その方がいいに決まっている。

● 劇中の原節子も立派なハイミス。笠智衆演じる父親は,世間体を気にしているふうではないんだけど,結婚が女の幸せだっていうテーゼを疑っていない。この時代であれば当然だ。
 しかも,自分が娘の幸せを妨げる原因になっている。であれば,ぼくが彼の立場であっても,この程度の芝居は打つかもしれない。

● ただ,この娘は父親に恋人的愛情まで抱いているようでもあり,ひょっとすると,結婚させるよりこのままにしておいた方が,娘の幸せだったのかもしれないなと思わせる。狙った演出なんでしょうね。
 原節子の演技によるのかもしれない。「おもらいになるの? 奥さん」って笠智衆に詰るように訊ねるところがあるんだけど,これなんか恋人に対するがごとくだったなぁ。

(お断り)
 じつは,この映画,直前に用事ができちゃって,観に行けませんでした。観る前にこの文章を書いておいたのですが,そのまま載せちゃうことにしました。

2012年12月16日日曜日

2012.12.16 宇都宮市立南図書館名作映画会 「東京物語」

宇都宮市立南図書館サザンクロスホール

● 小津安二郎の代表作。2年前に鹿沼市民文化センターの名作映画会で初めて見た。今回が2回目。

● 主催者のホームページでの紹介には「年老いた両親の一世一代の東京旅行を通じて,家族の絆,夫婦と子供,老いと死,人間の一生,それらを冷徹な視線で描いた作品」とある。
 子供たちのわがまま,未熟さ,ゲンキンさに対して,老夫婦の達観,あきらめ,忍耐を対比。そこに原節子が天使の役で老夫婦を支える。
 間に当時の風俗や生活の様をきめ細かく埋めこむ。もちろん,ここで描かれているのは,当時のかなりアッパーな都会の暮らしだと思う。農村や田舎(当時の日本の大部分)ではとてもこんな華やかな生活はなかったはずだ。
 以上が2年前に見たときの感想。

● で,今回は宇都宮市立南図書館で映写会があるというので出かけていった。無料。上映は午前10時から。
 DVDにもなっているんだろうから,レンタルショップで借りてくれば,いつでも見られるはず。なんだけど,DVDを借りて自宅で見ることはあまりしない。レンタルショップまで行くのが面倒だから。というと,南図書館の方がはるかに遠いので,それはなぜ面倒じゃないのかっていう説明ができなくなるから困るんだけど。
 ま,人の気配があるところでひとりで見たいから,ってことにしておきたい。

● 東京のアイコンとして煙を吐きだす工場の煙突が使われる。尾道のアイコンはポンポン汽船とボンネットバス。そして,両者をつなぐのが汽車。

● 原節子の役は,老夫婦の戦死した息子の嫁。戦死して8年が経つのに,再婚しないで嫁として老夫婦に接する。東京の安アパートに一人で暮らしているんだけど,言葉遣いはすっごいセレブ。
 考えてみると不自然なんだけど,元々は良家のお嬢さんだったという設定なんだろうか。原節子が演じると,当然ながら不自然さが表に出てくることはない。

● 淡々と描いている。子供たちの身勝手さを描きながらも,それを責めるわけではない。そういうものだ,そうせざるを得ないものだ,と認めているようだ。末尾で原節子にそう語らせている。
 ストーリーはシビアなのに,見終えたあとに頭に荷物を載せられたような感じは味わわなくてすむ。

● っていうか,子供たちはできることはやっている。それでもなお,親の心の琴線をはずすんですね。ほんのちょっとした出来事が結果を分ける。
 その「ほんのちょっとした」ことを自分の管理下に置くことは難しい。それゆえ,この世はままならぬというわけなのでしょう。

2010年12月12日日曜日

2010.12.12 第2回鹿沼市民文化センター名作映画祭

鹿沼市民文化センター大ホール

● 12日(日)は小津安二郎の映画を見てきました。場所は鹿沼市民文化センター大ホール。文化庁が主催する「優秀映画鑑賞推進事業」に乗っかった企画だ。上映する映画は「麦秋」(1951年),「東京物語」(1953年),「彼岸花」(1958年),「秋刀魚の味」(1962年)の4本。朝10時から夜までのロングラン。
 9月に鹿沼フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会に行ったときに,この催事のチラシを発見した。前売券は5百円。それで小津映画の代表作を4本見られるのはありがたい。幸い,他のコンサートと日程が被ることもなかった。

● この時期の鹿沼は駅前の風景と空気が変わる。空気がすんで日光連山が間近になる分。異郷に来たと思わせる。
 だいぶ時間に余裕があったので,市民文化センターまで裏道を歩いてみることにした。通り抜けできない路地に迷いこんでしまったが,これも一興。

● 大ホールの埋まり具合は3割程度だったか。主力は高齢者。特に後期高齢者が多かった。老人ホームがそのまま引っ越してきたかの趣があった。非高齢者ももちろんいたけれど,圧倒的に少数でしたね。本当は若い人たちに見て欲しいんだけど,こうならざるを得ないもんなんでしょうね。
 ところで,高齢者が多かったというときに,自分を高齢者には入れていない。っていうか,若者の方に入れている。自分が年を取ったとなかなか思えない。ひょっとしたら,後期高齢者たちも同じなのかもしれないね。

● 小津安二郎の名前はもちろん前から知っていた。「東京物語」のストーリーも知っていた。しかし,見る機会はないよね。NHKの教育テレビでもまず放送しないし,もちろん市中の映画館でかかることもない。レンタルショップの名画コーナーにも「ローマの休日」のような洋画はあるんだけど,昔の邦画は黒沢作品くらいしかないのじゃないだろうか。田舎だとね。
 というわけで,見る機会がない。一方,ここのところ茂木健一郎さんのエッセイ集や対談集をけっこう読んでいるんだけれども,茂木さんが小津映画を絶賛していて,見てみたいなぁという気持ちが嵩じてきていた。
 そこへ,今回の企画だ。鹿沼市民文化センターとボランティアで裏方を務めてくださった方々(これも初老のおばちゃんたちが多い),本当にありがとう,だ。

● 堪能できた。4本も見たんじゃグッタリと疲れてしまうのじゃないかと思っていたんだけど,そんなことはなかった。時間はそれぞれ2時間程度なんだけど,胸につかえるとか胃にもたれるといったことがない。昔の映画って,要するに小品なんですね。今の映画は画面も大きくて,音も四方から聞こえてくる。コッテリした肉料理の趣がある。昔のは画面も小さいし,ゴテゴテしてなくて,料理にたとえれば懐石のひと椀といった感じだ。
 「麦秋」と「東京物語」はぼくらが生まれる前に制作された作品なのだけど,とても郷愁を誘われた。ここに描かれている生活は,当時の都会のしかもかなりアッパー層の生活だ(田舎の庶民の生活じゃ貧しすぎて映画にしようがない)。自分とはかけ離れた世界のお話なんだけれども,それでもとても懐かしかった。
 「彼岸花」と「秋刀魚の味」は嫁に行く娘と父親の葛藤を描いたものだが,そうした葛藤も今は昔の話になった。家族の紐帯が強かったのは,個々では生きらなかったからだ。家族が協力しなければそれぞれの生存を確保することができなかった。今はそういう煩わしさから解放された。その良し悪しを議論しても仕方がないが,楽になった分,生活の深みが失われたかもしれない。しかし,豊かになるとはそういうことだ。

● 昔の男たちは煙草をやたらに喫っていた。ぼくが就職した頃はまだそうだった。そういうところが懐かしさを感じる理由になっている。
 酒場のシーンが頻繁に登場するのもそうだ。男たちはしょっちゅう酒を酌み交わしている。当時,そんなに安く呑めたとも思えない。昔は外で働く男たちは先取り特権的に呑み代を確保することが許されていたのだろうか。まさに「主人」だったのだなぁ。
 そういう生活を見ると,今より余裕を感じる。どうも仕事も暇だったようだ。管理職なんて上がってくる書類を読んでハンコを押していればよかった。しかも,その書類は女子社員が運んできてくれる。用事はその女子社員に頼めばいい。夜になると呑みに行く。羨ましいような生活だ。しかし,一方にこうした余裕があれば,それ以外のところは貧困に覆われていたに違いないと考えるのが道理だ。
 「彼岸花」に登場する父親は,無愛想で大丙な男だ。誰に対してもそうだ。が,それを咎める風は映画の中のどこにもない。回りが彼に合わせて,彼を盛りたてているようだ。男はそういうものだと思われていて,奥さんや子どもたちは,そこを刺激しないようにしつつ,父親を操縦していたのだな。
 要するに,男たちが楽をできた時代だ。

● 小津映画といえば笠智衆。4本のすべてに出演している。三宅邦子,杉村春子,中村伸郎が3本に,原節子,東山千栄子,東野英次郎が2本に,それぞれ出演している。劇中の名前が同じだったりする。同じ俳優でいくつもの作品を作っているのも小津の特徴だ。相性とか使いやすさというのはどうしてもあるのだろうが。
 「麦秋」では原節子が健気なヒロインを演じた。昔から名前だけは聞いていたが,かの高名な原節子はこういう人だったのか。が,彼女に限らず,今の女優さんの方がたぶん美人だと思う。
 「東京物語」では杉村春子が食えない長女役を演じて秀逸。「彼岸花」では,小津ファミリーではない山本富士子が,京都弁の長い台詞を難なくこなして,ユーモアと可愛らしさを振り撒いた。「秋刀魚の秋」では伝説の佐田啓二(中井喜一の父親だったと思うのだが)を見ることができた。東野英次郎も好演。
 というわけで,本当に満足した。1日家を空けてしまって,ヨメには趣味の多い人はいいわねぇと皮肉を浴びせられてしまったんだけど。