2016年2月20日土曜日

2016.02.20 宇都宮市立視聴覚ライブラリー 20世紀名画座 「山羊座のもとに」

宇都宮市立東図書館 2階集会室

● 1949年のイギリス映画。監督はヒッチコック。ヒッチコック作品の中では「サスペンス色が薄い」らしい。上映前にスタッフの説明があった。

● 舞台はオーストラリアのシドニー。シドニーでは成功している人に対しても,前歴を訊いてはいけないとされていた。なぜなら,たいていの場合,刑務所にいたからだ。
 イギリスから犯罪者が大量に送られてきた。彼らがオーストラリア開発に果たした役割は,実際も小さくはなかったのだろう。

● 主演はイングリッド・バーグマン扮するヘンリエッタと,彼女の夫であるフラスキー(ジョゼフ・コットン)といっていいだろう。ジョゼフ・コットンの演技は重厚で,印象に残った。
 しかし,それ以上にフラスキー家のメイド(ミリー)を演じたマーガレット・レイトンの存在感がすごい。ミリーの存在がヒッチコック的サスペンスの趣を湛えている。

● ヘンリエッタを励まし,元気づける役割のアデア(マイケル・ワイルディング)も重要な役どころだけれども,トリックスター的な役回りか。
 ヘンリエッタとフラスキーに割って入ることはできない。夫婦にしかわからない修羅場があった。
 リチャード総督(セシル・パーカー)もいい味,とぼけたところのある善人,を醸している。

● この映画については,ぼくでも知っていたエピソードがある。「イングリッド,たかが映画じゃないか」とヒッチコックがイングリッド・バーグマンに語ったというエピソード。
 なにしろ,超ロングのショットがある。俳優には過酷に過ぎる。納得できないバーグマンは,「ヒッチコックを質問攻めにした」。
 ところが,ヒッチコックは「議論嫌い」。そこで,「イングリッド,たかが映画じゃないか」と。

● 面白いエピソードだと思うんだけど,ヒッチコック,ちょっとずるいよね。今だと,説明責任を果たしていないと言われそうだな。
 が,ずるいけれども,彼の気持ちはかなりよくわかる。

● この映画のタイトルの由来は何なのだろう。山羊座って。星座だよね。誕生日を支配する星座のことだろう。
 ヘンリエッタかフラスキーの誕生日なのか。それとも,二人が駈け落ちを決行した日? 追ってきたヘンリエッタの兄を殺してしまった日?
 今頃になって気になってきた。

2016年1月16日土曜日

2016.01.16 宇都宮市立視聴覚ライブラリー 20世紀名画座 「恐喝(ゆすり)」

宇都宮市立東図書館 2階集会室

● 1929年のイギリス映画。監督はかのアルフレッド・ヒッチコック。イギリス映画のトーキー第1作になるらしい。
 冒頭は,サイレント・タッチで警察の仕事を丹念にリサーチしていく。

● 事件が片づいて。刑事のフランク(ジョン・ロングデン)は恋人(婚約者か)のアリス(アニー・オンドラ)とデートに出かける。
 が,30分も待たされたアリスは最初からオカンムリ。デートの途中で諍いを起こしてしまう。
 その諍いの原因のもうひとつは,プレーボーイの画家の男(シリル・リチャード)のアリスへのモーションだ。阿呆なアリスは,彼とデートをし,あろうことか彼の部屋に上がりこんでしまう。
 案の定,アリスは襲われそうになり,必死の抵抗の末,彼を殺してしまう。

● その事件を担当したのがフランク。現場にアリスの手袋の片方が残っていたのを発見して,上司にばれないようにそっとポケットにしまう。
 ところが,事件の真相を知ったトレイシーと名乗る男(ドナルド・カルスロップ)がアリスとフランクをゆすりに来る。ここがよくわからないところ。
 トレイシーもアリスの手袋の片方を持っているんだけれども,どうしてそれを手に入れることができたのか。そこが腑に落ちない。

● トレイシーは,しかし,警察が目をつけていた前科者だった。フランクは彼に罪をなすりつけようとする。トレイシーは逃走し,大英博物館に逃げこむ。
 ここでの捕りものシーンは見応え充分。が,トレイシーはドームの上に追いつめられて,あっさりと墜落死してしまう。

● アリスはトレイシーに罪をかぶせることを潔しとせず,自ら警察に出頭し,自首しようとする。が,担当警部にいろいろと取りこみがあったようで,フランクが対応することになった。
 フランクは全部わかっているわけだから,アリスの話を聞く必要はない。で,二人で警察署の出口に来る。そこで終わる。

● フランクがアリスに自首をさせなかった(アリスもそれを承諾した)ようにも取れる。
 が,その直前に画家の部屋にあった絵(アリスが破いた箇所がある)が警察署に運びこまれるシーンが挿入されており,アリスが逮捕されることを暗示するようでもある。
 また,冒頭のサイレントシーン(取り調べ)に繋がるようでもある。
 このあとどうなるかは,視聴者の想像に委ねているのか。

● ヒッチコックの映画は,展開が点線になっているというか,一義的にこうだと視聴者に押しつけないというか(でもかなり匂わせてはいる),要するに大人の映画だという印象。
 イギリス的成熟の一側面を体現している,といってもいいんですかね。

● シリル・リチャードのプレイボーイぶり,画家を殺してしまった後のアニー・オンドラの鬼気迫る演技,そしてドナルド・カルスロップの“ゆすり”の妙。
 この映画はそういうところを味わうものだと思った。

2015年12月19日土曜日

2015.12.19 宇都宮市立視聴覚ライブラリー 原節子さん追悼映画会「晩春」

宇都宮市立東図書館 2階集会室

● 1949年の小津安二郎作品。2010年12月に鹿沼市民文化センターの名作映画会で見ている。今回が2回目。
 と思っていたんだけど,2010年12月には見ていないのだった。いつどこで見たんだ?

● 父親(笠智衆)と娘(原節子)の交流。母親は早くに亡くなっているのだろう,ずっと娘が父親の世話をしてきた。
 娘は父親が自分の母親以外の女性と再婚することを不潔だと感じているらしい。娘が中学生や高校生ならばそれもわかるんだけど,劇中の娘は27歳だ。27歳でそのように考えるのは,少しくあり得ないように思われる。

● 娘が「おもらいになるの? おもらいになるのね? 奥さん」と父親に迫るところがある。これなんか恋人に対するがごとくだ。
 父と娘の間に,夫婦に似た情感が通うことがあるのだろうと思うほかはない。ぼくには娘がいないので,どうにもここは雲を掴むような話になるのだが。

● ともかく。自分は再婚するからおまえも嫁に行け,自分の面倒をみている必要はない,と娘に嘘をつき,娘を縁づける。
 その間の笠智衆の演技はじつにどうも淡々としたもので,力みやわざとらしさは1ミリも見られない。ずっとポーカーフェイスだ。役者の存在感は薄ければ薄いほどよいと考えているのか。

● 娘が嫁いだ日。式が終わって,自宅に戻り,来客もすべて去って,一人になったとき。
 リンゴの皮を剥いていた父親が突然うなだれて,リンゴを取り落とす。ここでこの映画は終わるんだけれども,ずっとポーカーフェイスでいたのは,このシーンのためだったかと思わせる。
 この演技だけが唯一,父親が娘と離れる辛さ,寂しさを抑えに抑えた動作で表現したところだった。

● 昨日は「東京物語」を上映したようだ。南図書館でも26日に「晩春」と「東京物語」を上映する。何度見てもいい映画だ。けれども,貪るのはよろしくないでしょうね。
 アマゾンを見ると,DVDが500円で買える。そういう時代なんだな。フィルムを一人占めして,自分専用にするなんて考えられない贅沢だった。それがデジタル化のおかげで(それと,著作権が切れたおかげで)現実のものになったわけだけれども,そうなってみると,そんなものは贅沢でも何でもなく,ただの寂しい行為に過ぎないことがわかった。

2015.12.19 宇都宮市立視聴覚ライブラリー 20世紀名画座 「赤い靴」

宇都宮市立東図書館 2階集会室

● 東図書館の「20世紀名画座」は,土曜日に催行される。10時からと14時からの2回上映。もちろん,毎週やっているわけではないけれども,往年のこうした映画を拾っていけるのはありがたい。
 昔は名画座っていうのが興行的にも成り立っていた。ロードショーの半額くらいの料金で3本立てとかね。つらつら思んみるに,娯楽の選択肢が今と比べれば圧倒的に少なかったんでしょうね。
 選択肢が少ないと教養主義が幅を利かせることになって,名画座もその流れに乗っていたものかもしれない。もちろん,教養云々以前に面白かったから,見に行っていたわけですけどね。

● 東図書館ではもうひとつ,日本映画の上映も継続してやっていて,こちらは金曜日。
 これに参加できるのは,リタイアしたお年寄りだけかと思うんだけど,興行的には成り立たなくなったことを公共セクターがやってくれて,ありがたいですよ,と。

● 「赤い靴」は1948年公開のイギリス映画。「赤い靴」というと,ぼくなんかは,横浜の波止場から異人さんに連れられて行っちゃった女の子が思い浮かぶんだけど,もちろんそれは無関係。アンデルセン童話の「赤い靴」がモティーフになっている。
 キャストはプリマに抜擢されるヴィッキー(ヴィクトリア・ペイジ)にモイラ・シアラー,ヴィッキーを抜擢した興行種ボリス・レルモントフにアントン・ウォルブルック,この興行で音楽を担当し,ヴィッキーと恋仲になるジュリアン・クラスターにマリウス・ゴーリング。

● この映画の第一の見せ場は,タイトルのとおりだ。つまり,劇中バレエの「赤い靴」だ。セリフなしのダンスシーンがずっと続く。
 死ぬまで踊り続けなければならないプリマ。それを演じるヴィッキー(を演じるモイラ・シアラー)の可憐さ。

● もうひとつ。レルモントフは「赤い靴」の成功に気をよくして,ヴィッキーをジゼル,白鳥の湖など,メジャーな作品の主役に使って,世界を興行して回ろうとする。
 その映像の中に,コッペリアを演じるヴィッキーが10秒程度だろうか,出てくるんだけど,こんなチャーミングなコッペリアは見たことがない。

● 「赤い靴」をはいたダンサーは死ぬまで踊り続けなければならない。それを主人公ヴィッキーの人生にもかぶせていく趣向。
 レルモントフと対立したジュリアンは団を出ていく。ヴィッキーもジュリアンにしたがう。しかし,踊る機会がなくなる。踊りは自分の人生そのものだとヴィッキーは思っている。
 が,ジュリアンを裏切ることはできない。ギリギリのところでヴィッキーは死を選ぶ。この場面で悪役はいない。レルモントフにもジュリアンにも,ヴィッキーを死に至らしめた責任を問うことは難しい。

● ぼく一個は,ジュリアンを振りきって,バレエを選んで欲しかったかなと思うんだけどね。
 誰かのために自分を殺せる度合いは,男よりも女のほうが大きい。これが女の可愛らしさの源であるし,女に凄みをもたらす原動力でもある。
 結局,ヴィッキーはジュリアンに「赤い靴を脱がせて」と告げて死んでいくのだから,ジュリアンのために“バレエ=自分の人生”を殺すことを選んだのだ。

● あと,この映画で面白かったのは,当時のヨーロッパの上流クラスの暮らしぶりだ。レルモントフには常時,執事というのか召使いというのか,世話係がついていて,煙草を吸うんでも火は自分ではつけないし,灰皿だって向こうからやってくるのだ。
 こういう暮らしの伝統を持つヨーロッパ人と,それができないぼくらとでは,たとえばホテルでの過ごし方や,初対面の人との接し方などに,相互に理解不能なほどの違いが出るのかもしれないね。ヨーロッパ人が羨ましいとはまったく思わないけどね。

● この映画に出てくるロンドンやパリは,カオスに満ちている。東京は焼け野原になっていたわけだけど。
 馬車と内燃機関で動くバスが同じ道路で競合する。そこに,蒸気機関の列車が加わる。全部合わせても,交通需要を満たすことは難しかったようだ。ゆえに,煮えたぎっているような雑踏が生じる。
 良くいえば,活気がある。普通にいえば,秩序がない。悪くいえば,肺を病みそうである。

2015年11月21日土曜日

2015.11.21 宇都宮市立視聴覚ライブラリー 20世紀名画座 「バグダッドの盗賊」

宇都宮市立東図書館 2階集会室

● 1940年のイギリス映画。ウォルシュが監督を務めた同名のアメリカ映画とは別のもの。ファンタジーまたファンタジーの娯楽映画。

● バグダッドの愚かな王アーマッド(ジョン・ジャスティン)は宰相ジャファル(コンラート・ファイト)にまんまと騙され,牢屋に入れられ,殺されそうになる。
 それを助けたのが,「バグダッドの盗賊」の少年アブウ(サブウ)。
 が,ジャファルの魔法で,アーマッドは盲目に,アブウは犬にされてしまう。これは,どうにも腑に落ちない理由で元に戻るんだけども,アーマッドはどこまでも脳天気で,バスラの姫(ジューン・デュプレエ)にひと目ぼれ。アブウはアーマッドの恋のためにひと肌もふた肌も脱ぐ。
 以後はアブウの冒険譚。絶体絶命のときにジニーが登場。さらに,お伽の国で空飛ぶ絨毯を手に入れ,ジャファルによって死刑を執行される寸前だったアーマッドと姫を救いだす。
 アーマッドはめでたく王位に復帰し,アブウは新しい冒険を求めて(つまり,秩序を嫌って),空飛ぶ絨毯でバグダッドを去っていく。
 めでたし,めでたし。

● アーマッドが,何でもあったが自由だけはなかったと言ったのに対して,アブウは,何もなかったけど自由だけはあったと返す。
 ステレオタイプだけれども,いいねぇ,このやりとり。

● 結局,最後まで自由を優先したアブウがこの映画のヒーローだ。少年の機知と少年らしからぬ大人びた大局観がこの映画の魅力の源泉。
 新しい冒険を求めたアブウに幸いあれ。

● この映画は宇都宮市立視聴覚ライブラリー(の職員)が上映してくれているわけだけども,16㎜フィルムを使っているわけではない。DVDだ。
 そのDVDは今どきだからだいぶ安くなっているはずだ。要するに,個人でもDVDプレーヤーなりパソコンで観ることができる。

● この映画鑑賞会は無料だけれども,時間コストを考えると,わざわざ東図書館まで自分を運んでいくより,DVDを買って自宅で観たほうが安い。
 それでも一人でこの映画を観る気にはならないね。

2015年10月18日日曜日

2015.10.18 宇都宮市立南図書館名作映画会 「或る夜の出来事」

宇都宮市立南図書館 サザンクロスホール

● 1934年のアメリカ映画。富豪の娘エリー(クローデット・コルベール)と新聞記者ピーター(クラーク・ゲーブル)の恋物語。

 といっても,ふたりとも大人なわけで,何より映画なわけで,そこは様々なエピソードやくすぐりを利かせて,愉快痛快な内容になっている。最後はハッピーエンド。

● クラーク・ゲーブルって,日本でいえば三船敏郎のような役者ですか。どんな役をやっても,クラーク・ゲーブルだ。役に没入するというより,あらゆる役を自分に引きずりこむみたいな。

● エリーの父親アンドリュース(ウォルター・コノリー)も面白い役どころ。真剣に愚かな娘を案じていたことが最後にわかる仕掛けになっている。あのままウェストリー(ジェムソン・トーマス)と結婚していたら,必ずエリーは後悔することになったはずでね。
 が,ピーターとの結婚も先が思いやられると思うんだけどねぇ。彼ほどの男は必ず浮気するからな。

 途中で,お金がなくなってヒッチハイクでニューヨークをめざすことになる。エリーが令嬢らしからぬ色じかけで車を止めるのは,方程式どおり(今では古くて使われなくなっているのだろうけど)。安心して見ていることができた。

● こういう展開はリアルではあり得ない。ましてさえない小市民かつ凡人の自分には絶対に起こらない。
 それをスクリーンで追体験して,束の間のカタルシスを味わえるのが,こうした映画の醍醐味なのだろう。

● 名画座が消滅して久しい。今ならDVDをただに近い値段で借りていくらでも見られるのだろう。ひょっとすると,ネットにも転がっているのかもしれない。
 が,そうやって見たいとは思わないんだよなぁ。やはり他の人たちと一緒に,かつてと同じ大きさのスクリーンで見たい。意味のないノスタルジアかもしれないけれど。
 宇都宮市の図書館や視聴覚ライブラリーではけっこうマメに公開してくれてて,ありがたい。

2015年10月17日土曜日

2015.10.17 宇都宮市立視聴覚ライブラリー 20世紀名画座 「我が道を往く」

宇都宮市立東図書館 2階集会室

● 公開は1944年。昭和19年。つまり,アメリカが太平洋戦争を戦っていた最中(しかし勝利は決定的になっていた)のことだ。
 が,この映画に戦争臭はまったくない。

● 舞台はニューヨークの下町(場末?)にあるセント・ドミニク教会。45年前にこの教会を建てて,ずっと神父を務めているフィッツギボン老神父(バリー・フィッツジェラルド)のところに,若いチャック・オマリー神父(ビング・クロスビー)が助手として赴任してくる。
 じつは,この教会は赤字でどうにもならない状態だったため,おまえが行って立て直してこいと“司教さま”の命令を受けた隠密剣士(?)だった。

● オマリーは歌もピアノも巧く,作曲の才能もあって,札付きの不良少年たちを聖歌隊に取りこんでしまう人なつこさを備えていて,美人のオペラ歌手リンデン(リーゼ・スティーヴンス)に思いを寄せられる伊達男である。
 羨ましい限りだ。主人公はかくあるべし。

● 終盤,フィッツギボンが心血を注いだ教会が焼け落ちてしまう。
 が,オマリーが作った曲がレコード会社に売れ,再建のめどがついたところで,オマリーに異動辞令が出る。

● 18歳の家で娘キャロル(ジーン・ヘザー)がキュート。楽天的でバカっぽくて,でも情があってほんとは賢いんだぞ,という役どころ。
 メインはオマリーとフィッツギボンの絡み。フィッツギボンを演じたバリー・フィッツジェラルドが,この映画の屋台骨を支えている。

● タイトルの「我が道を往く」は劇中でオマリーが歌う歌から取ったものと思われる。オマリーもフィッツギボンもリンデンもキャロルも,わが道を行っているわけだけれども。
 もちろん,映画の中の話だから,おとぎ話ではある。そのおとぎ話のカタルシス効果を味わえる。