2014年1月19日日曜日

2014.01.19 第5回鹿沼市民文化センター名作映画祭

鹿沼市民文化センター 大ホール

● 東京国立近代美術館フィルムセンターが所蔵しているフィルムを全国各地で放映するという催し。栃木でも鹿沼市民文化センターのほか,時期を分けて何ヶ所かでやっている。
 今回は成瀬巳喜男監督の4作品。「めし」(1951年),「おかあさん」(1952年),「浮雲」(1955年),「乱れ雲」(1967年)。
 放映開始は10時半。チケットは500円(前売券)。

● 「めし」は上原謙と原節子の夫婦に,島崎雪子の姪が絡む。戦後数年しか経っていない時期に,このままの平凡な人生でいいのかしら,と思い悩む女性を描いた映画が存在したということに,驚く。
 映画に限らず,人間の表現欲というのは相当にしぶといもので,この種の驚きには事欠かないらしいのだが。

● 登場する夫婦は,しかし,当時の庶民ではないだろう。何といっても,この時期に米だけのごはんを食べているんだからね。当時の日本だと,大半の地域では麦飯(米麦の割合は半々ぐらいか)を食べていたろうから。
 作中人物は,当時の夜行列車で大阪から東京まで移動するわけだけど,これだってね,今の感覚からすると,国際線のビジネスシートくらいになるのかも。
 見ようによっちゃ,呑気な上流奥様のお気楽な悩みってことにもなる。もちろん,林芙美子の原作があるんだから,ここにあまり時代を絡ませててはいけないわけだけど。

● もっと言うと,当時,映画を観ることができた人って,日本人全体の何パーセントくらいになるのだろう。まだまだ,一部のセレブの娯楽だったはずだ。
 であればこその輝きって,きっとあるんだと思う。

● 原節子の母親役を演じた杉村春子が印象的。苦労を重ねてきたのに,その苦労を表に出さず,静かに娘を諭す。かつての母なるものの理想像。大いなる諦念を身体化しているかのような。
 ほぼ同じ時期の小津安二郎「東京物語」では原節子の義姉役を演じているんだけど,それとの落差も印象的で,この人は何でもやれる人なんですな。

● 「おかあさん」は田中絹代のために作ったのかと思える映画。この人,今でいうと吉永小百合的存在ですか。あまり器用な人ではないと思うんだけど,女優に器用さなんていらないじゃんと思わせる。
 ほどよくシリアスで,後味もいい。胃にもたれない。

● 着るものを繕い,箒を使って掃除をし,手で洗濯し,ご飯を炊くのも文字どおりの自炊だ。当時は,会社の仕事よりも家事労働の方がずっと大変だったに違いない。
 その後,洗濯機や掃除機がすさまじく普及していくわけだが,メーカーの開発動機は先鋭だったに違いない。社員の誰もが母親の苦労を間近に見ている。楽にしてやりたいという思いは本物だったはずだ。

● 今回の4作品の中で最も印象に残ったのが「浮雲」。高峰秀子と森雅之の「不倫関係を断ち切れない様子を描いたもの」。
 「不倫」というのは問題の一部であって,要は,森雅之演じる富岡という男は,女に対して腰が軽いんだね。少し自重しろよ。そうしていれば,高峰演じるゆき子が味わう苦痛や屈辱感は,数分の一になったんじゃないか。
 でも,まぁ,男は全員,富岡の気持ちは理解できるでしょうね。

● 「あきらめても裏切られても離れられない二人のやるせなさは,なにかにすがりつかずには生きていけない人間の業の深さを描いた成瀬の代表作」と紹介されている。そうなのかもしれない。監督は「人間の業の深さ」を描きたかったのかもしれない。
 が,こちらの受けとめ方はそういう次元には至らなかった。女の可愛らしさと,それ以上に女の凄みを演じた高峰秀子の,今の言葉でいうとキュートさがいいなぁ,っていうもの。情けない。

● この映画でもそうなんだけど,相手のために自分を殺せる度合いは,圧倒的に女の方が高い。その代わり,女に覚悟を決められたら,男に対抗する術はない。
 あだや軽々に扱ってはならぬ。

● 女が自然であるのに対して,男は人工。女が本音で動くのに対して,男はきれい事を並べる。女が身を挺するのに対して,男は遠巻きに眺めている。人生における当事者感覚がだいぶ違う。
 この映画も,林芙美子の原作があるわけだけど,男が演出している。男が女を描くと,どこかに甘さが出る。実際の生身の女性は,この作品以上に手ごわいものだというのは,大人の常識になっていないといけない。

● 「乱れ雲」は1967年の作品。他3作品はモノクロなのに対して,これはカラー。もうひとつ大きな違いがあって,他3作品では道路が舗装されていない。画面には映っていないが,雨の日はぬかるみ,風の日には埃がたったことだろう。
 それがこの作品では道路はすべて舗装されている。ケータイやパソコンやインターネットはないけれども,都市の骨格も生活水準も現在との連続性を感じさせる。

● 主演は司葉子と加山雄三。加山雄三って不思議な役者さんだね。陰影はないわけですよ。演技も一本調子っていいますかね。
 シリアスな心情の推移を丁寧に演じていく司葉子に対して,ほとんどノーテンキな性格の劇中人物を作っている。母親役の浦辺粂子らに助けられている感は否めないでしょうね。
 ただ,そのノーテンキぶりが何だかいいんですよねぇ。ここが不思議なところ。加山ありきで脚本も作っているんだと思うんだけど。
 それと,とぼけた役でちょっとだけ登場する左卜全,いいですなぁ。

● 司葉子はこのとき33歳。今の33歳に比べると,ずいぶん大人。悪くいうと老けている。まだこの頃は,大人がきちんと大人になってくれていたんでしょうね。
 今は,年齢層を問わず,若返っているのは確かなようだ。たぶん,いいことなんだろう。

2013年6月12日水曜日

(2013.06.02 宇都宮市立南図書館名作映画会 「晩春」)

宇都宮市立南図書館 サザンクロスホール

● 1949年の小津安二郎作品。2010年12月に鹿沼市民文化センターの名作映画会に続いて,今回が2回目。
 父娘の物語。娘(原節子)が自分の面倒をみるために結婚に踏みきらないのを察した父親(笠智衆)が,自分も再婚すると偽る。

● 当時と今とでは世相が違いすぎる。特に女性にとっての結婚は,今よりずっと重いものだったろう。女性にはなかなか職もなかったし,あったとしてもいつまでも勤めるのは肩身が狭かった。
 ハイミスっていう言葉があったね。要するに,社会から受けるプレッシャーが今とは比較にならない。社会が放っておいてくれなかった感じね。
 寿退社が当然視されてたし,結婚年齢も23歳あたりが平均だったのではないか。だから,女子社員は文字どおり職場の花だった。若い子しかいないんだから。

● 今は世話焼きオバサンがいなくなって,自分で婚活をしなければならなくなった。婚活が産業になってしまって,それを飯の種にする人たちも出てきたわけだけど,これはこれでイビツかもね。
 出会いの場がなくなったなんて言われるけど,本当にそうなのかね。ぼくは疑っているんだけど。

● ともあれ,そうではあっても,当時と今とどちらがいいかといえば,圧倒的に今の方がいいと思っている。
 女性が経済的に男に頼る必要がなくなった。結婚しなくても生きていける。結婚はしなければならないものではなく,選択の範疇に属するようになった。あとは本人の意識の問題。その方がいいに決まっている。

● 劇中の原節子も立派なハイミス。笠智衆演じる父親は,世間体を気にしているふうではないんだけど,結婚が女の幸せだっていうテーゼを疑っていない。この時代であれば当然だ。
 しかも,自分が娘の幸せを妨げる原因になっている。であれば,ぼくが彼の立場であっても,この程度の芝居は打つかもしれない。

● ただ,この娘は父親に恋人的愛情まで抱いているようでもあり,ひょっとすると,結婚させるよりこのままにしておいた方が,娘の幸せだったのかもしれないなと思わせる。狙った演出なんでしょうね。
 原節子の演技によるのかもしれない。「おもらいになるの? 奥さん」って笠智衆に詰るように訊ねるところがあるんだけど,これなんか恋人に対するがごとくだったなぁ。

(お断り)
 じつは,この映画,直前に用事ができちゃって,観に行けませんでした。観る前にこの文章を書いておいたのですが,そのまま載せちゃうことにしました。

2013年1月19日土曜日

2013.01.19 第4回鹿沼市民文化センター名作映画祭

鹿沼市民文化センター大ホール

● 一昨年に続いて,この映画祭に行くのは2回目。前回は小津作品を4本。今回は今井正監督の作品を同じく4本。
 チケット(前売り)は500円。

● 10時に上映開始。終わったのは夜の8時過ぎ。間にたっぷりめの休憩を挟むのと,今どきの映画のように大画面・大音量ではないので,さほど疲れは残らない。
 とはいうものの,さすがにね,1日に見る量とすれば,このあたりが限界ですね。
 上映本数は1本で,1回ごとにお客を入れ替えるというのは,シネコンができてからの話で,それ以前は3本立てで入れ替えなしなんてのが普通にあったから,若い頃はもっと長い時間映画館にいたこともあったのかもしれないんですけどね(オールナイトっていう言葉もありましたね)。

● その若い頃。いわゆる名画座で3本立てをけっこう見たものだけど,すべて外国の映画だった。邦画を見た記憶はないですね。邦画って新作以外はどこの映画館でもやってなかったですよねぇ(都会ではあったのかもしれないけど)。需要がなかったからでしょうね。
 というわけで,今回見た映画もすべて初めてのもの。

● 1本目は「また遇う日まで」(東宝)。1950年の作品。主演は岡田英二と久我美子。戦時中の若い男女が恋に落ち,共に命を散らして,「また遇う」のは天国になるというストーリー。
 若き久我美子の気品ある美しさは何にたとえよう。っていうかですね,率直に申しあげると,今の日本なら,けっこういると思うんですよ,この程度にきれいな女の子って。
 だけども,何の根拠もなく言うんですけどね,1950年の当時はそうでもなかったはず。市中の女性とは隔絶した存在だったのではないかなぁ,とね。

● ガラス(窓)ごしに二人がキスするシーンがあって,これが当時は相当な共感を呼んだらしい。のだが,今の目線からすれば,何やってんの,あんたたち,って感じかなぁ。
 いや,充分に感情移入はできますね。この状況のこのシーンには,時代を超えた説得力がある。なぜなら,この映画に描かれている世界に抵抗なく入れますからね。入ってしまえば,そこはすなわち現在になるわけで。

● 岡田英二が演じる劇中人物(大学生)は最後までお子様でね。今でも時々,戦前の旧制高校を礼賛する声を聞くことがあるんだけども,まぁロクなもんじゃなかったに違いないと思いましたねぇ。こんなやつらが「栄華の巷低く見て」(旧制一高の寮歌)と気取っていたのかと思うと,腹が立つやら情けないやら。要するに,「巷」から隔絶されると,人は必ず馬鹿になる,と。
 ともあれ,この映画は久我美子の美しさがすべて,というのがぼくの感想。

● 次は「青い山脈」(東宝)。1949年。主演は原節子だけれども,準主演の杉葉子(高校生役)の方が光っていた。芸者役の木暮実千代も存在感があった。
 この当時は,原節子が美人標準だったかに思われるんだけども,今のモノサシからすると,そもそも美人の範疇に入るのかどうか。若い頃からオバサン顔だったんだなぁ。
 あるいは,この頃って,20歳を過ぎると相当に大人びていたのかもしれないんですけどね。

● 原作は石坂洋次郎。ぼくは高校生のときにこの原作を読んだことがあるんだけど,今の若者は読まないんでしょうね。
 それでいいと思う。当時のぼくでさえ,わざわざ時間を割いて読むほどのものかと,正直,思った記憶がある。現在の若者なら,ほかに読むべきものがあるはずだ。

● 3つめは「純愛物語」(東宝)。1957年の作品。主役は江原真二郎と中原ひとみ。
 ふたりはいわゆるアウトロー。「周りの状況に押しつぶされそうになりながら,必死の抵抗を続ける恋人たちの姿は,この監督の作品に一貫する重要なモチーフである」との解説がある。
 ぼくが感じたのは,いったんアウトローの世界に組み込まれてしまうと,そこから抜け出ることは非常に難しいだろうなってこと。環境が彼をムンズと掴まえて放さない。その環境圧っていうか,環境の拘束力って,相当なものじゃないのか,と。

● 一方で,アウトローの世界で生きていけるほどの人ならば,常界(シャバ)で生きるのなんて楽勝のはずだとも思うんですよ。ところが,常界に定着できない。
 その理由はよくわからない。しばしば言われる常界側の無理解(正確には異能者を排除する傾向)を別にすれば,彼が常界に敵意を持っているか,常界になじむことを諦めているか,あるいはその両方か。
 なぜ敵意を持つのかといえば,貧困(の記憶)と彼のどこかにある愚鈍さだ。ここでいう愚鈍とは,よくいえば,社会のルールに乗ることを潔しとしないこだわり。あるいは,損得計算をしない向こうみず。
 彼らふたりは時代の被害者なんだけれども,21世紀の日本にも彼らのような人はいるだろう。他に害を及ぼさないのであれば,放っておいてやるのがいい。それが一番だ,たぶん。

● この映画だけは,白黒ではなくてカラー。オープニングクレジットにも「総天然色」という文字が誇らしげに?表示される。
 この年から映画がカラーになったんですかねぇ。おそらく当時の映画ファンからは否定的な意見が多く出されたのではないかと推測するんですけどね。白黒の方が味わいに奥行きがある,とかね。新しいものに対しては,たいてい否定的な意見が主流になるものでしょうからね。

● 最後は「真昼の暗黒」(現代ぷろだくしょん)。1956年の作品で,冤罪が生まれる過程を描いたもの。伊福部昭さんが音楽を担当。
 テーマがテーマだけに,最も腹にこたえた。言葉で言ってしまえば,捜査する側が予断に基づいて青写真を描いてしまって,強引にその青写真のとおりにコトを作ってしまうのが問題なのだ,となる。
 しかし,これって,捜査する側にいる人間が誰であっても起きそうだ。たまたま問題が発生したときの捜査者個人を懲らしめればそれですむという話でもない。
 一方で,冤罪とされた事件の中にも,じつはやっぱりやっていたってのがあるんじゃないかとも思うわけで,実体的真実を事後捜査で確実に明らかにできるはずもない。そのうえで,ではどうするか。疑わしきは罰せず,を徹底するのか。

● この映画の中で行われている捜査は明らかに拷問で,証拠は拷問による自白に基づく供述調書だけ。当時は,警察の取り調べはこんなものだろうっていう共通了解があったんでしょうね。さすがに,今はこれと同じことは行われていないと思うけど,自白偏重ってのはまだありそうだな。
 それがいいとか悪いとかではなくて,なぜ自白が偏重されるのかをきちんと考えた方がいいのかもしれない。状況証拠で詰めていくって,けっこう以上に怖いものなのかもしれないと思ったりもする。それよりは自白に頼った方が,まだしも間違いが少ないのかもしれない。

● 往年の名優っているんだと思う。でもね,おしなべていうと,今の俳優さんの方が演技は上手いと思いましたねぇ。リアリティーがあって演技を感じさせないように思いますね,今の俳優さんの方が。
 往年の名優ってのも,過去の美化かもしれないなぁ,と。

● とはいえ,4本とも見てよかったと思いますよ。近い過去は知っておいた方がいい。
 もちろん,映画はフィクションなんだけれども,1950年頃にどんなフィクションが生みだされていたのかってのを知っておくことは,けっこう今につながるかも。
 それにですね,映画ってやっぱり娯楽ですよ。楽しめるんですよ。心を飛ばせますよ。その点に関して,古い映画はダメだなんてことはまったくないですな。

2013年1月13日日曜日

2013.01.13 宇都宮市立南図書館名作映画会 「紳士は金髪がお好き」

宇都宮市立南図書館サザンクロスホール

● 「紳士は金髪がお好き」は1953年にアメリカで公開されたコメディ・ミュージカル映画。主演はマリリン・モンローとジェーン・ラッセル。
 あまりに有名な映画だけれども,ぼくは今回,初めて観ることができた。
 上映は午前10時。入場無料。

● マリリン・モンローのその後については,たいていの人が知っていると思う。一方のジェーン・ラッセルは一昨年,89歳で亡くなった。
 長く生きりゃいいというものでもないと思うけれども,実人生ではこの二人,明暗を分けた感あり。

● こういう名画・名作と称されるものは,たいてい公立図書館にもDVDがあって,無料で借りることができるだろう。自宅でDVDプレーヤーなりパソコンで観ることができるはず。
 が,自宅でひとりで映画を観る気にはなかなかなれない。

● お客さんは高齢者が多い。老人ホームの施設内行事かと見紛うほど。そこにポツンポツンと壮年者が混じっている感じ。
 大昔の映画だから,若い人はよほどの映画通でもなければ観ないものでしょうね。かつて観たことがあるっていう人たちが,懐メロをカラオケで歌うがごとき感覚で,観にきたということでしょうか。

● でもね,面白かったです。ミュージカル映画ということもあってか,今,観ても,古いという感じは受けなかった。活き活きしてて,テンポが良くて。
 もちろん,画面に出てくる当時のパリの風俗は懐メロそのものなんですけどね。

● 「紳士は金髪がお好き」というタイトルも秀逸ですよねぇ。お客さんにアピールするという意味で(原題は「Gentlemen Prefer Blondes」だから,邦題はほぼ直訳)。
 当時,ヒットしたのは,タイトルの勝利でもあるんでしょね。主役ふたりのナイスバディとキュートさにも,当時の日本人男性は大いに憧れたんだろうけど。

2012年12月16日日曜日

2012.12.16 宇都宮市立南図書館名作映画会 「東京物語」

宇都宮市立南図書館サザンクロスホール

● 小津安二郎の代表作。2年前に鹿沼市民文化センターの名作映画会で初めて見た。今回が2回目。

● 主催者のホームページでの紹介には「年老いた両親の一世一代の東京旅行を通じて,家族の絆,夫婦と子供,老いと死,人間の一生,それらを冷徹な視線で描いた作品」とある。
 子供たちのわがまま,未熟さ,ゲンキンさに対して,老夫婦の達観,あきらめ,忍耐を対比。そこに原節子が天使の役で老夫婦を支える。
 間に当時の風俗や生活の様をきめ細かく埋めこむ。もちろん,ここで描かれているのは,当時のかなりアッパーな都会の暮らしだと思う。農村や田舎(当時の日本の大部分)ではとてもこんな華やかな生活はなかったはずだ。
 以上が2年前に見たときの感想。

● で,今回は宇都宮市立南図書館で映写会があるというので出かけていった。無料。上映は午前10時から。
 DVDにもなっているんだろうから,レンタルショップで借りてくれば,いつでも見られるはず。なんだけど,DVDを借りて自宅で見ることはあまりしない。レンタルショップまで行くのが面倒だから。というと,南図書館の方がはるかに遠いので,それはなぜ面倒じゃないのかっていう説明ができなくなるから困るんだけど。
 ま,人の気配があるところでひとりで見たいから,ってことにしておきたい。

● 東京のアイコンとして煙を吐きだす工場の煙突が使われる。尾道のアイコンはポンポン汽船とボンネットバス。そして,両者をつなぐのが汽車。

● 原節子の役は,老夫婦の戦死した息子の嫁。戦死して8年が経つのに,再婚しないで嫁として老夫婦に接する。東京の安アパートに一人で暮らしているんだけど,言葉遣いはすっごいセレブ。
 考えてみると不自然なんだけど,元々は良家のお嬢さんだったという設定なんだろうか。原節子が演じると,当然ながら不自然さが表に出てくることはない。

● 淡々と描いている。子供たちの身勝手さを描きながらも,それを責めるわけではない。そういうものだ,そうせざるを得ないものだ,と認めているようだ。末尾で原節子にそう語らせている。
 ストーリーはシビアなのに,見終えたあとに頭に荷物を載せられたような感じは味わわなくてすむ。

● っていうか,子供たちはできることはやっている。それでもなお,親の心の琴線をはずすんですね。ほんのちょっとした出来事が結果を分ける。
 その「ほんのちょっとした」ことを自分の管理下に置くことは難しい。それゆえ,この世はままならぬというわけなのでしょう。

2010年12月12日日曜日

2010.12.12 第2回鹿沼市民文化センター名作映画祭

鹿沼市民文化センター大ホール

● 12日(日)は小津安二郎の映画を見てきました。場所は鹿沼市民文化センター大ホール。文化庁が主催する「優秀映画鑑賞推進事業」に乗っかった企画だ。上映する映画は「麦秋」(1951年),「東京物語」(1953年),「彼岸花」(1958年),「秋刀魚の味」(1962年)の4本。朝10時から夜までのロングラン。
 9月に鹿沼フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会に行ったときに,この催事のチラシを発見した。前売券は5百円。それで小津映画の代表作を4本見られるのはありがたい。幸い,他のコンサートと日程が被ることもなかった。

● この時期の鹿沼は駅前の風景と空気が変わる。空気がすんで日光連山が間近になる分。異郷に来たと思わせる。
 だいぶ時間に余裕があったので,市民文化センターまで裏道を歩いてみることにした。通り抜けできない路地に迷いこんでしまったが,これも一興。

● 大ホールの埋まり具合は3割程度だったか。主力は高齢者。特に後期高齢者が多かった。老人ホームがそのまま引っ越してきたかの趣があった。非高齢者ももちろんいたけれど,圧倒的に少数でしたね。本当は若い人たちに見て欲しいんだけど,こうならざるを得ないもんなんでしょうね。
 ところで,高齢者が多かったというときに,自分を高齢者には入れていない。っていうか,若者の方に入れている。自分が年を取ったとなかなか思えない。ひょっとしたら,後期高齢者たちも同じなのかもしれないね。

● 小津安二郎の名前はもちろん前から知っていた。「東京物語」のストーリーも知っていた。しかし,見る機会はないよね。NHKの教育テレビでもまず放送しないし,もちろん市中の映画館でかかることもない。レンタルショップの名画コーナーにも「ローマの休日」のような洋画はあるんだけど,昔の邦画は黒沢作品くらいしかないのじゃないだろうか。田舎だとね。
 というわけで,見る機会がない。一方,ここのところ茂木健一郎さんのエッセイ集や対談集をけっこう読んでいるんだけれども,茂木さんが小津映画を絶賛していて,見てみたいなぁという気持ちが嵩じてきていた。
 そこへ,今回の企画だ。鹿沼市民文化センターとボランティアで裏方を務めてくださった方々(これも初老のおばちゃんたちが多い),本当にありがとう,だ。

● 堪能できた。4本も見たんじゃグッタリと疲れてしまうのじゃないかと思っていたんだけど,そんなことはなかった。時間はそれぞれ2時間程度なんだけど,胸につかえるとか胃にもたれるといったことがない。昔の映画って,要するに小品なんですね。今の映画は画面も大きくて,音も四方から聞こえてくる。コッテリした肉料理の趣がある。昔のは画面も小さいし,ゴテゴテしてなくて,料理にたとえれば懐石のひと椀といった感じだ。
 「麦秋」と「東京物語」はぼくらが生まれる前に制作された作品なのだけど,とても郷愁を誘われた。ここに描かれている生活は,当時の都会のしかもかなりアッパー層の生活だ(田舎の庶民の生活じゃ貧しすぎて映画にしようがない)。自分とはかけ離れた世界のお話なんだけれども,それでもとても懐かしかった。
 「彼岸花」と「秋刀魚の味」は嫁に行く娘と父親の葛藤を描いたものだが,そうした葛藤も今は昔の話になった。家族の紐帯が強かったのは,個々では生きらなかったからだ。家族が協力しなければそれぞれの生存を確保することができなかった。今はそういう煩わしさから解放された。その良し悪しを議論しても仕方がないが,楽になった分,生活の深みが失われたかもしれない。しかし,豊かになるとはそういうことだ。

● 昔の男たちは煙草をやたらに喫っていた。ぼくが就職した頃はまだそうだった。そういうところが懐かしさを感じる理由になっている。
 酒場のシーンが頻繁に登場するのもそうだ。男たちはしょっちゅう酒を酌み交わしている。当時,そんなに安く呑めたとも思えない。昔は外で働く男たちは先取り特権的に呑み代を確保することが許されていたのだろうか。まさに「主人」だったのだなぁ。
 そういう生活を見ると,今より余裕を感じる。どうも仕事も暇だったようだ。管理職なんて上がってくる書類を読んでハンコを押していればよかった。しかも,その書類は女子社員が運んできてくれる。用事はその女子社員に頼めばいい。夜になると呑みに行く。羨ましいような生活だ。しかし,一方にこうした余裕があれば,それ以外のところは貧困に覆われていたに違いないと考えるのが道理だ。
 「彼岸花」に登場する父親は,無愛想で大丙な男だ。誰に対してもそうだ。が,それを咎める風は映画の中のどこにもない。回りが彼に合わせて,彼を盛りたてているようだ。男はそういうものだと思われていて,奥さんや子どもたちは,そこを刺激しないようにしつつ,父親を操縦していたのだな。
 要するに,男たちが楽をできた時代だ。

● 小津映画といえば笠智衆。4本のすべてに出演している。三宅邦子,杉村春子,中村伸郎が3本に,原節子,東山千栄子,東野英次郎が2本に,それぞれ出演している。劇中の名前が同じだったりする。同じ俳優でいくつもの作品を作っているのも小津の特徴だ。相性とか使いやすさというのはどうしてもあるのだろうが。
 「麦秋」では原節子が健気なヒロインを演じた。昔から名前だけは聞いていたが,かの高名な原節子はこういう人だったのか。が,彼女に限らず,今の女優さんの方がたぶん美人だと思う。
 「東京物語」では杉村春子が食えない長女役を演じて秀逸。「彼岸花」では,小津ファミリーではない山本富士子が,京都弁の長い台詞を難なくこなして,ユーモアと可愛らしさを振り撒いた。「秋刀魚の秋」では伝説の佐田啓二(中井喜一の父親だったと思うのだが)を見ることができた。東野英次郎も好演。
 というわけで,本当に満足した。1日家を空けてしまって,ヨメには趣味の多い人はいいわねぇと皮肉を浴びせられてしまったんだけど。

2010年8月8日日曜日

2010.08.08 映画「のだめカンタービレ 最終楽章 完結版」

那須野が原ハーモニーホール小ホール

● 8日も午後から那須野が原ハーモニーホールにいた。今度は小ホール。映画「のだめカンタービレ 最終楽章 完結版」の前編,後編が上映されたので,それを見に行ったのだ。このたびはヨメも一緒。
 料金は前編が5百円,後編が8百円。ぼくは(ヨメも)どちらも宇都宮のTOHOシネマで見ている。前編はすでにレンタルDVDも出ているが,後編は映画館での上映が終わってまだそんなに経っていない(ゆえに,料金も8百円)。大画面でもう一度見られるなら,見てもいいかなと思って,チケットを買ってしまった。

● のだが。だんだん後悔するようになっていた。第一に,映画はどんなに良くても二度は見ない,一回勝負と決めているんだけど,それに反したこと。一回勝負だったじゃないかと自分に突っこみを入れたくなった。
 同じ日に鹿沼市民文化センターで鹿沼高校音楽部管弦楽団の定期演奏会があった。ぼくが一番聴きたいのはオーケストラで,そのレベルにはこだわらない。オーケストラの演奏会を蹴って,一度見たことのある映画に行くとはどうしたことか。

● 今回は車。だからヨメも付いてきたわけですね。というわけで,「ひとり&電車」以外の行き方を初めてすることになった。わが家から大田原までは,ま,たいした距離じゃない。車だと速いです。駅まで歩くとか,ホームで電車を待つとか,改札口を抜けるとかってのがないですからね。自宅から目的地までストレートに結ぶからね。

● で,見てみると,見て良かったな,となりました。二度目でも面白かった。一回目のときには気づけなかったことも発見できた。
 ロケ地であるパリやプラハ,ウィーンの美しいこと。使われている音源はCDなんだろうけど(→後日,そうではないことを知った。さすがにそんな安っぽいことはしないのだった),圧倒的な音響設備で聴くと,臨場感が溢れだすようだ。